いつ頃始まり、終わったか忘れたが、「時計恐怖」というものがあった。
今でもその名残というべきか、部屋には「針時計」は置いてない。
「針の音」が嫌だったのと、「時の経過を針が刻む」のを「目で確かめる」のが嫌だったのだと思う。
それは、「時計というものが刻む時間」に「訳もなく」急かされる、焦らされる恐怖感や焦燥、苛立ちといった心理背景があったのだと思う。
今は、「針時計」こそ置かないものの、そうした「恐怖感」「不安」からはようやく解放されたという実感がある。
それは「人生の時間」を、「完全に自分のもの」にしてあるということと、その十分な「可動性・操作可能性」を得ているということを意味している。
そうした「時間のコントロールと展望の自由・自律性」と同時並行で重要性を持ったのは、「時事世界を、同時的に眺める」視座・スタンスの確立ということである。
いくつかの記事で言及したが、割と最近まで、「時事情報」を見ないし、「見たくない」または「摂取しようにも時間がない、またはスタンスを決められない」といった状況が数年単位で継続していた。
無論、「全くニュースを見ない」ということではないのだが、「思うように、社会的関心を拡げられない」といった「自己疎外」状況があった。
分かりやすく言えば、「社会的関心は無くはないものの、嫌なことだらけで目を背けたい、耳を塞ぎたい」といった精神面が強力に阻害し、「知る」ことから意識的に「逃避」していた部分が大きかった、ということを意味する。
これは、「能力×時間×展望の自由度」上昇ということで、上述の「時間のコントロールと展望の自由・自律性」と不可分の関係にある。
上で述べたのは、どちらかというと「内面的なネガティブの理由・背景」であるが、ポジティブには、「自分の能力を高め、視点や展望を確立する」ことに集中していた、という側面も無論ある。
その間というのは、不用意に時事に接してブレさせない、ということにも自覚的だったからだ。
「自分自身を、情報過多にしない」ように心を砕いてもいたのだ。
「知る」ことは大事だが、その「射程を、自ら決められる」スコーピングの操作性を手にしていることを、最重視してきた、と言い換えてもいい。
乱暴な言い方をすると、(甚だしく「時代遅れ」にならない限りは)「時事」は「自分の展望(=やりたいこと)」を明確にするまでは「棚上げ」にしてもさほど問題ない、と捉えてきたわけだ。
「展望の明確化×時事情報の摂取」というのが、ようやく「自分を『時代』へと『同調』させにいく」アクションとして位置付けることが出来る。
それはまさに、「時を前に進める」ことを意味する。
「時を前に進める」というのは、「自分が世(=社会)で行動する」その歩みと、歩みの覚悟を決めることが要請される。
そうでない限りは、「じっと自分を内に閉ざし、世の動きにも『見ざる聞かざる』で過ごす」で問題ないからだ。
自分の「時間=世界」との付き合い方は、少々極端なのかもしれない。
だが、自分が「空っぽ」のままで「情報のシャワー」を浴びせられても、「不安なままで、『誰か』に踊らされる」ことにしかならない。
ならば、「自己の充実」まではひたすら「待つ」よりない。
「時計恐怖」は、だから「自分の弱さ」なのかと思っていた時期もあった。
が、今の結論としては「そうではない(なかった)」となる。
「時間」というもの自体への思索を深めたことも大きいのだが、それは当ブログの趣旨からは外れることになるだろう。