今回の選挙後、友達と電話でその結果について電話で話す機会があった。
自分も彼も、期日前投票で投票したが、投票先政党は違っていた(居住地も異なる)。
前にも言及したかもしれないが、自分は政治や政策は好きだし、関心も持ってきたが、「選挙や議会制には興味を持たない」という特殊な関心のあり方で推移してきた。
選挙もかなり長く行ってない時期もあったし、近年も国政選・地方選とも「毎回行く」皆勤タイプではない。たぶん「選挙」「議会制」には比較的最近興味が湧いてきたというべきだろう。尤も、今回はそれ自体が本題ではないので別の機会に譲りたい。
今回の投票結果全般に関する分析という話ではない。
実は、自分の昔の知人が、選挙に出ているのだが、そのことをその友達と話した内容についてである。(その知人と、自分の友達は直接の関係はないが、知人の活動状況に興味を持ったので前に色々話したことがあったのである)
その知人は選挙では敗けたのだが、友達の状勢分析が鋭くて、自分とは著しく異なっており、意外と自分は「政党・知人バイアス」に支配されていたのだ、ということを実感したのだ。
というより、自分は「選挙」「議会制」というものに無頓着なせいで、あまり深いリサーチや考察というものをしてこなかった。
すると勢い、判断や行動が「主観」に流されがちだった、という意外な事実を突きつけられたわけだ。
それはその知人の結果分析に関してだけでなく、自分の「投票行動」それ自体にも言えたのである。
その知人の出馬は初めてではない。
友達は、「今回の選挙でダメならもう見込みがないんじゃないの?」と冷徹に言い放った。
彼の分析をよくよく聞くと、非常に根拠があって、自分の「状勢次第では勝てていた」という「思い込み」とは著しい懸隔があった。
その知人が「惜しい、今一歩」である(というのは自分も感じはしていたのだが)というのも、友達から指摘されて実感したことでもある。
以下は割と細かい話になる。
その知人とは、短期間だが、ある活動で親しく共に過ごしていた時期もあり、「その友誼から」彼の以前の出馬の際に、非常に少額だが彼の後援会に寄附を行ったことがあった。(ネットで簡単に寄付できる仕組みが構築されていた)
当然、彼は敗けたために、「金ドブ」になってしまったわけだが。
自分も少額とはいえ「支援者」には当たる訳なので、敗戦後は、その知人から謝罪なり申し開きなりがあるかと思っていたが、何もなかったのでやや拍子抜けして終わった、という経緯があった。
が、「まあ、そんなものなのかな?」と思い、特に気にするともなしに忘れていた。
電話で思い出して、友達にその話をしたところ、「いや、それはする人はするし、だから差がついてるんじゃないの?」とも言われて、「確かにそうか」と納得する部分もあった。
「華」「運」「実力」全体において、「あと一歩」足りていないのだが、それを「これから果たして、埋め合わせられるのか?またいつまでに?」というところに対し、意外と懐疑的な結論で終わってしまったのである。
「続けていればいつかは当選できるものなのか?」はよく分からない。
結構な「茨の道」なのは間違いない。
自分の「政党」バイアスの意外かつ無根拠な大きさも、自覚してみて驚いた部分でもあった。
しかしそれは、かつての「名残」というものと、「選挙そのものへの無関心」が相まっているという部分が大きい。
民主党政権の失敗以降、「政治的自己疎外」が起きていたが、近年の「群小政党」の勃興でに興味が再び刺激されたという面がある。
自分は「政策本位で」「政党に」何かを期待する、という判断やアクションがないからこその「根拠ある無関心」ということもできる。
ただ一方でだからこそ、「何目的で・どのように政党を眺めるのか?」というスタンスや視座がないというべきかもしれない。
近年の「政党史」に関しては少し興味が出てきているので、それを同垢別ブログ(seijishakaishi)のほうで整理しようかという目論見がある。
その中で、自分なりのスタンスが見えてくるかもしれない。