「毒喰らわば皿まで」-腹を括る

米大統領選のトランプ再選、兵庫県知事選の前知事再選という結果を受けて、自分の中でも「一本線がつながった」感覚を覚えた。

「トゥルーサー(真実創出者)」という独自用語を用いているのだが、生成AIやSNS隆盛下では今後、技術×政治力を巧みに組み合わせた実力者が、任意に「真実を創出し、社会的に認定」される社会が到来した、と見ていいだろう。

民主主義社会下においても。法(法の支配と法治主義)も既存メディアも、手続きを通じての「権力チェック」ではなく、今後は「既存権威・権力の追認」の役割へと一挙に後退せざるを得ず、いずれは欧州も米国同様、「権威主義国」に転じていくと見ていいだろう。

 

そうした見通しの中で、自分はどのようなバランシングをすべきか?ということを考えてきたのだ。

結論から言うと自分は、「法」と「トゥルーサー」の「中間・中庸」の位置を保っていくことにしている。

そこにしか、自分の「義」は見出し得ない。

 

やや大胆な踏込みかもしれないが、「米中新冷戦」(?トランプ再選によりどのような構図になるかは不明だが)は、超長期的には、(「戦国時代」を経て)「ロ中朝の勝利」に終わる、と見ている。

なぜか?

基本的に、「新興国は、権威主義を支持する」からだ。

部分的には民主化・民主主義運動が占める社会もあるかもしれないが、全体趨勢としては、権威主義が占めていく。

そして、米国は、トランプ再選を通じて、「権威主義」への旗幟を明らかにした、と見ていい。

もっとも、米国の場合は、一国主義・保護主義が軸となっており、単純な「権威主義的連帯」の構図とはならないわけだが。

 

もう「民主主義は敗けた」と見なしているのである。

敗北主義と見なされようが、そこに抵抗はしない。

「時間のムダ」だからだ。

やりたい人間は、メディアに入るなり、老人左翼運動に投じればよい。

 

自分はだから、恐らくは一種のマキャベリズムを採っていると見てもいい。

「法」と「トゥルーサー」、どちらにバランスされているかを常に眺めて態度を決める、という。

 

「法」と「民主主義」は、無論「信じたい」ものではあり続けた。

しかし、既に今は(日本も含めて)「権威主義」へと振れてしまった、ということなのだ。

その現実を率直に認めるところしか始まらない。

今はしかし、その「過渡期」でもあるということ。

だから、上述のバランシングの余地もまだある訳だ。

 

今まで当ブログでも述べてきた通り、現在進行中の「戦争×環境・資源危機」が急ピッチで加速化していく。

そこでは、既存の「法」だの「民主主義」だの馬鹿げた手続きを守ることは無意味化していく。

では、自分もそうした「権威主義者」に投じるのか?

否。

では彼らに「抵抗」するのか?

それも否。

 

「不関与のまま、自分単体のみが生き残る」途を、基本的には選びたい。

が、もし関与を迫られたら、上述の通り「中間・中庸」の地点を巧みに選び抜く、ということ。

「法」と「民主主義」を「カード(=力)」として使える分には活用していく、ということだ。

それは、いずれは「全体主義」に飲み込まれる、ということかもしれないが。

「毒喰らわば皿まで」というのはその見通しのことだ。

 

「ファクト」は、「フェイクトゥルース」にいずれ飲み込まれていくだろう。

「ファクトチェック」という営み自体が、恐らく間もなく無意味化していく。

 

「守りたいもの」があったとして、それが(自分一個人の生命や財産であっても)もはや簡単には守り得ない。

「何に賭ければ」それを守れるのか?

使えるうちは、「法」と「民主主義」への「義理は果たしたい」。

が、「権威主義」下では、それらを「信用」する意味や根拠がそもそもないのである。

 

そして実は、それらより重要なのは、「自分が自分に、ウソをついていないのか?」ということだと考えている。

「自分で自分を騙す」というのは、「自己というデータログ」を辿った時に、必ずエラーやバグが見つかり、全体の歪みをもたらすことになるのである。

そして、一度でも「自分で自分を騙す」ことを容認すると、もう引き返すことが出来ない。よく言うように「ウソをウソで塗り固める」ことの連続のみが待つことになる。

 

「自分で自分を騙す」というのは、「自分よりも大きく、強い、抵抗できない何か」に屈することで生じると思っている。

「義」というのは、まさに「自分で自分を騙さない」ことだと考えている。

「フェイク」か「トゥルース」か「ファクト」か、というのは、実は「人が決めること」ではないのである。

 

「法」と「民主主義」を「カード(=力)」として使える分には活用する、というのは、別に「義」として信じているというより、自分に言わせればプラグマティックに選んだ手段に過ぎない。

しかし、あとから自分というものを振り返った時に、「どこにもウソがないな」という「信頼できる自分のデータログ」を残せるな、という差当りの現実主義的判断に根差したものと言えるのである。