気候変動と戦争で加速する食糧危機は、既に身近に迫っているのだろう、と感じ取っている。
食糧危機と、危機に際しての自分がどうふるまうとか対策を講じたいか、の前に考慮すべきことは、「生きてなさねばならぬ事」があるのか、という自問に答えを出しておくことだ。
弱いと言われようが、片方で厭世的な自分がいて、水だけ飲んで最後は餓死でもいんじゃないの?という(深刻な飢餓を体験したことのない空論で)方向に傾いてしまう自己もいるからだ。
シミュレーションしたり対策したりそれに動いたり、というのは、実際のところは内容に大小の難しさはあるだろうが、「やる」自体は実際は方向性を見出せば可能とみるべきだ。
じゃあその先、どこに向かう・向かえるの?というのが最大の問題だ。
自分の生きる方向性、そちらに「命」をベットしてもいいという目的地点がなくてはならぬ。そうでなければ、「(生命)力の根源」が湧いてこないからだ。
前も書いたが、「人を殺して押しのけてでも何としても生き延びてやろう」といった本能的な生存意欲という点では明らかに弱いし劣っている。
「強さ」を内面的に強化するには、「知と理」がどうしても必要なのだ。
片方でこれまた自己本位だが、はっきり言って、人類も地球も知ったことじゃない、という気持ちもまたある。
今の終末世界を招いたのは人類の自己責任によるものだからだ。
別に「馬鹿な人類」と無理に歩みを共にする必然性はない、というスタンスもありだろう。
わからない・見出してないのは「暮らしの先」だ。
「人類の中で、自分にしかできないこと」があるなら、例えば、それで人類文明全体の寿命が少しでも長くなるとかなら、それは自分固有の、「生きてなさねばならぬ事」と捉えることも可能だろう。
食う食わ(食え)ないの先に何があるのか。
そうなると、どんな終末世界が現出するだろうか。
この場合は暴力ではなく、資源(食糧や文明に必須の石油・半導体)と、その産出・交易に関与できる国、なおかつ気候変動・気象災害の影響度が低い国に、次第に「力」と「富」が偏っていくだろう。
しかし、同時にそこには難民も向かっていくことになる。
すると、どこの国だろうといずれトランプ的な壁を設けてブロック・ゲットー化していく筈だ。そうすれば、確実に衝突・紛争から戦争も起きてくる。
そして、気候変動は、地域差はあれ、いずれどの国もほぼ同じような状況に陥っていくだろう。
逃げたとして、「逃げた先が独自資源で持つ年数」の違いはあるから、「生き永らえる安心感」を「一時的に」得ることはできるかもしれない。
あるいは、「生存戦略」としては、「安全な地を逃げつないで凌ぐ」というのもありかもしれない。
その間に、人類文明全体が存続する、よりマシな手立てが見つかるかもしれない。
ここまで来てようやく、自分自身が感じる「焦りと不安」の正体が見えてきた。
「固有の資源を持たないのに、急速に経済社会が貧困化する日本で生活しているのに、必要ならそこから脱出する準備や環境も整ってない」状況に対して、である。
早い話が、日本の国も社会もまるで信用していないのだ。
にもかかわらず、代替選択肢を自分で準備できてない。その愚かしさと無為に苛立っているのだ。
一方で自分は、生きるも死ぬもどうでもいい、という割り切った姿勢もある。
前にも書いたが、重要なのは、いずれにしても納得できる生き方・死に方を選びたい、ということだ。結果がどちらかというのはどうでもいいことだ。
過程を自分で納得するまで考え抜いて、それを実行に移せていれば、終末が死だったとしても後悔せずに済む。
日本を信用していないというのは、日本を見放している、ということか。
そうかもしれない。
生き続けられる保証や確率が見いだせない限り、見放しても仕方ないのではないか。
じゃあ、どこかには行けるのか、行った先には生活があるのか。そこは資源があり、戦争や気候変動のリスクが比較的低く、国内治安も保たれるのか。
そこで、自分が「食う」だけでなく、「なすべきこと」を見出して「暮らしの先」を指し示せるのか。
上で述べた通り、終末が生か死かは結果的にはどちらでもいいことだ。
しかし、考えられる・知を振り絞れるうちは、そしてまだ資源が少しでも使えるうちは、準備できることは準備しておきたい。
「これから、どこで、何が起きるのか」シミュレーションを集めまくっておく。
それぞれの地での、可能な生存策を知っておく。
その上で逃げるか逃げないか、逃げるならどこにどう逃げられるのか、その先で何を成すべきか。
「命のひりつく」難しいベットを強いられている、な。
古代文明の頃、あるいは文明開始前のように、「とにかく0からでも額に汗して生きていく」ような暮らしが、気候変動×戦争の先もあり得るなら、そこに賭けてもいい。
あるいは、「宇宙脱出」が最も面白おかしく、なおかつ結果的に人類の存続につながるというならそれに向かうのもありだ。
反対に、いずれにしても死しか待ってないというなら、ただふさわしい「死に場」を求めに行くだけになるだろう。