「護憲老人」は戦争を食い止められるか

ガザ危機により、一挙に「世界大戦」の構図が明確化した観がある。

ウクライナ戦争は、そうはいっても「NATOvs.ロシアの局地戦」の色合いが強かったからだ。

(本当に米欧を「民主主義」陣営と見なし得るならば)「民主主義(=米欧イスラエル+日本)」陣営vs.「権威主義(=ロ中朝イラン)」だ。

ロシア・イランはハマスを支援している。

「グローバルサウス」は、「民主主義」陣営とは言い難いが、一概にロシアに味方するという訳でもなく、「自分たち自身の生存」を第一義に考えているのではないか、と捉えている。

 

日ごろ偉そうなことを言っていても、欧州は所詮イスラエルの味方に過ぎないし、米国はそのエゴを国連でも平然と露にすることも世界で改めて明らかになった。

ロシアが、結果的にはパレスチナの味方をしている、という皮肉な構図となっている。

無論、パレスチナ問題というのは歴史的な積み重ねの結果として今がある。

個人的には、サウジやUAEイスラエルとの国交正常化を行うことで、パレスチナ問題は「なかったこと」にされるのかと勝手に思っていたら大馬鹿で、アラブ人は今なお強烈な連帯の感情をパレスチナ人に対して示している。

これまで蓄積された強烈な怒りの感情が、一挙に爆発したのだ。

 

筆者は、もうずっと前、安保法制騒ぎの前後に、いずれ日本も何らかの形で戦火に巻き込まれても仕方なかろう、との腹積もりは何となく立てていた。

冷笑系」と言われようが、はっきり言って、そのこと自体は殆どどうでもいい、と捉えている。

「自分には関係ない」と思っている訳でも、「自分が巻き込まれてもいい」と思っている訳でもない。また、「むしろ戦争が起きて欲しい」と欲求する「戦争願望論者」という訳でもない。

「戦争・戦火でも、何が何でも生き延びたい」との欲求には、今のところ欠けている。

いずれ巻き込まれるとして、「じゃあその戦争に対して、自分はどう処したい・処すべきなのか?」はまだ判断できてない。

既に、「これから現実に起こること」に対して、どうしたい・すべきか?に興味関心はシフトしている、(かっこよくいうなら)「現実論者」と言えるだろう。

 

一度めちゃくちゃになったものを、元に戻すことはできない。

「覆水盆に返らず」だ。

押し止められるのは、傷の浅いうちに留まる。

あとは、最高指導者が死ぬなどの大きな内部的な転換の節目を迎えるか。

 

「戦争の見通し」とまでなると、本稿の目的を大幅にはみ出てしまうが、ガザ危機により、米国に一挙に不利の展開となったことは間違いない。

「漁夫の利」を得かけているのは、台湾進攻を目指す中国だ。

中国は完全に無傷のままだ。といって、国内経済の不況は深刻化しつつあり、不満を逸らすために、いつ、どのような形でカードを切りに来るか。

 

日本が直接戦火の影響を受け得るのは、ロシアの北海道侵攻・北朝鮮のミサイル着弾を除けば、台湾海峡危機が最も濃厚だ。

そうしたリスクは、既に国民にもかなりの程度可視化され、認識も共有されつつあるのではないか。

 

最近、近年の政治史的過程を振り返るだけの余裕が出てきて、私的な整理を進めようとしている。

「安保法制」騒動時は、冷ややかというよりは、呆気にとられていた、というのが実際のところだ。

(昔、別のブログで感想を書いたこともある)

当然、親も反もなく、何のかかわりも持たなかった。

 

結論から言うと、「護憲老人」には、「戦争を食い止める」力はない。

理由は簡単で、彼らには中国もロシアも北朝鮮も、イスラエルも動かせる何らの政治力も持たないからだ。

そして、国内でも大衆を動かすだけの力すら持たない。

「護憲老人」すなわち「政治的敗者の小集合」に過ぎない。

ウクライナ戦争を通じて、初めて欧州までもが、「被爆国としての日本とヒロシマ」に注目したのは有益だったが、あまりに遅すぎた)

戦争を食い止められるとしたら、全く別の要因によるものだ。

 

ただ、いざ戦争が起こるとなれば、何らかの関与を迫られる可能性が濃厚だ。

というより、ただ「生き残る」という意思表示あるいはその行動をするだけでも、関与してしまう可能性がある。

少なくとも、「来たるべき戦争」に対しての、自分のスタンスは明確にしておく必要がある。

今までのように、ただ「護憲老人」を嘲弄していればいい段階は過ぎたと見るべきだ。

 

戦争そのものに加担したい訳ではないが、それも絶対的なものとは言い難い。

歴史を知っているだけに、「戦火で生き残る」ためだけでも、時に狡猾さや政治力がものをいうことも知っているからだ。

「バカづらをさらして無駄死に」するのだけは御免だし、だからこそ、無能でどこまでも政治に従順な大勢の日本人と同調しようとはまるで思わない。

しかし、まだ余裕があるならば、そして知恵や知力を絞る余裕があるならば、「自分が生き残る」ためだけでなく、「人も生き残る」ために、その余力を遣いたい。

しかし、「どのように?」かは、まだ分からない。