(あまり具体的な議論をしていません。政治社会史整理の「心理的準備」という、「主観的作業」に終始しているのでご注意下さい)
選挙完了を好機に、これまで積み残してきた「近年日本政治史」の推移を追いかけることにした。
当面特にポイントにおいたのは、「維新」(大阪維新の会・日本維新の会)史。
それだけを重視しているのではないが、「なぜ維新?」と問われても、あまり上手く返答できない。
同垢別ブログseijishakaishiで、故安倍首相について触れたが、その「双璧」的存在として、現代日本政治と社会を象徴する存在であると「直感」するから、としか言えない。
「安倍晋三回顧録」を読む - seijishakaishiのブログ
「選挙完了」を「好機」と見たのは偶然ではなく、いったん今回の結果も含め、(特に自民裏金問題を焦点に)「アベイズム」に一定程度、「区切り」がもたらされるのではないか、と見たからだ。
ようやく「アベ」から「距離感」を取った目線で眺め得る、ということ。
自分が今のところ読んでいるのは、読みやすい新書レベルしかなく、おまけにkindleでレコメンドされる本ばかりなので「偏っている」と称されても仕方ないかもしれない、という前提で…
既に、「維新」の「正体」とか、その政治像というのは少しずつ掴めつつある。
しかし自分は、「返す刀」というのも大切、と感じているのである。
「アベは保守ではない」「橋下徹は保守ではない」の類の言説は腐るほど見てきた。
その趣旨は何となくは分かるつもりなのだが、本当にそういうのを見かけるたび嘆息してしまう。
「一体この書いている連中は、どんだけ昔で頭脳が停止してるわけ?何のための『保革』論争を仕掛けようとしてるの?」
と感じてしまうのである。
自分の結論は、その手の言説の「正当性」はある程度認めているのだが、「今の日本の『保守』は、『ゾンビ左翼』以外に残存していない」という「逆説」的結論となる。
一応、「保革」の「筋論」が「全くの無意味」と見ているわけではない。
が、その「目的」や「存在意義」に対しては非常に「懐疑的」というわけだ。
「『保守じゃない』から、一体何なわけ?」
としか思えない。
論者の趣旨は、「(それら論者の観るところでは)『保守』ではない」連中が、「保守だ」と「自称」していることと、また「『保守』的伝統(?)」が「破壊」されていることを問題視しているのだ、と捉えてはいる。
が、それが分かったうえでも「だからどうした?」としか思えない。
自分は希少な部類と自認しているが、「ゾンビ左翼」や、古株評論家連中にも一定の「存在価値」は認めている。
「どこが?何を?」と言われるとまた難しいのだが。
「思想史的な筋」論の整理をしてくれるからだ。
問題は、その「思想史的な筋」そのものに、何の「存在価値」もなくなってしまった、ということなのである。
「ゾンビ左翼」や古株評論家連中というのは、本当に文字通り、完全に「思考が停止」しているのだ。
しかし、だからこそ、彼らの主張する「筋」を「歴史的にたどりやすい」。
つまり、本当に純粋に、「思想史的化石」としての価値ということなのだ。
(そこで言うならば、例えば今の日本共産党や社会民主党は、一種の「無形文化財」として扱うべき、と言ったところかもしれない。笑)
しかし、「ゾンビ左翼」や古株評論家が、その手の「化石的主張」を「現実に通用する言説」と信じ込んで(?)主張するのは、「マジか!?ガチで未だにこんなこと考えてるわけ?」と驚愕しかない。
ただし、「ゾンビ左翼」や古株評論家の固有の「実定的」な社会的価値も一応はあり、それは「ファクトチェック」のみに限られる。
「ゾンビ左翼」や古株評論家の言説に付き合うのは、「本当にキツイ」。
内容自体の難しさはない。これまた、良くも悪くも有難い(?)ことだが。
その数十年前で「化石化」したスピーカーに未だに付き合わされるその「苦行」のキツさ、ということなのだ。
「そのくせ、貴様はそれを有難がって読んでいるではないか」と突っ込まれたら一言もないが。
自分は、良くも悪くも、その手の論者も一向に信用していないが、「不信度合いの付き合い方」というものは確立している。
それは、(彼らが「『保守』ではない」と主張する)「アベ」や「維新」よりは、まだ「付き合い方」「距離感」の見極めが付いているから、というに過ぎない。
一種の「目印」として活用している、というのが少しわかりやすいだろうか。
「思想史的な筋」論で言うなら、「安保法制」騒ぎをどう見るべきだったかというのが、一応は自分のスタンスとしては固まってはいる。
ただ、「安倍政権」総体の評価は無論、まだ見極めが付かない。
現自民や政権次第でもあり、「見極めが付く」段階とも言えないだろう。
自分が狙いにしているのは、「権威主義」と「法(法の支配、法治主義)」の行方ということだ。
それは、「戦争」「資源危機」とも密接に絡んでくる筈だ。
自分が、「ゾンビ左翼」や古株評論家の「保革」論争が無為かつ無意味だと思っているのは、それらがこの難局にも難問にも、「何の答えも与えない」し「何もしようとしない(というより出来ない、能力がない)」からである。
彼らのスタンスは一貫していて、「何の責任も取ろうとせず、批判だけをする」ということである。(その一貫性は、「悪くも信用できる」と唯一断言できるポイントではある)
彼らは既に、例えば戦中の清沢冽の「暗黒日記」よろしく、「無能かつ冷静な観察者」になろうとしているのかもしれない。
だとするなら、「本当にお前らはダセーな」としか思えない。
つまり、「戦後の反省」が結局何にもならず、結果から言うなら、「ゼロ回答=成長0」と言わざるを得ないからだ。
「何も生み出さなかった」連中を、人々が、大衆が評価する訳がない。
というより、終始一貫して「批判だけする、他力本願であり続ける」ことに、「ゾンビ左翼」や古株評論家のアイデンティティがあったのだろう。
といって、「じゃあ自分がこれから何か生み出せるか?」というのは、「そんな時間があるのか?」が甚だ疑問となる。
「戦争」は、既に目前に来ているからだ。
「事後でも間に合うように」、またそうしたものを生み出しに行くよりない。
結果、「何にも乗れない」かもしれないが、まあそれはそれで仕方ない。
「無力な学問」に歯痒さは覚えるが、こっちの都合で、「いきなり成熟」はしてくれない。
「権威主義」と「法(法の支配、法治主義)」の行方については、引き続き当ブログでも(実践的に)フォローしていくだろう。