「奴隷=エンゲージメント喪失×金のための仕事」

最近、ネットの記事でよく見かけるようになったのが、「日本の労働者は、世界でも際立って仕事へのエンゲージメントが低い」というものだ。

まあそうだろうな、と思いつつ失笑している。

 

片方で、少し前から「パーパス経営」と「パーパス(目的)」を重視するという経営論のトレンドも生じていて、それ自体は好ましい流れではある。

自分たちの会社の、業務の「パーパス(目的)」を問い返すところに判断基準を立ち戻しているからだ。

 

昔、Twitterをやっていた時代に、「日本の会社員労働者は単なる奴隷だ」という趣旨のツイートをしたら反発するコメントが来たのが印象に残っている。

「奴隷呼ばわり」が、不快感を与えるものなのは承知している。

しかし、「お金のため」「生活のため」「家族のため」と言いつつ、会社、または自分の所属している組織においても「何のためにやっている仕事?」という「大義」も、「エンゲージメント(自分がそこに参加する意義)」もない、分からないのに働いている奴って…?とは率直に思う。

 

日本のサラリーマン社会では、「生計を稼ぐための歯車でよい」と割り切って、出世も昇給も大して望めないどころか、「楽しさどころか、意味も味わいもない仕事」に(定年まで)没入するのは、「むしろ立派だし褒められるべきでだし、なおかつそれが必要である」という価値観・仕事観(?)もあったのではないだろうか。

 

雇用契約上の建付けとしては、「奴隷」ではもちろんない。

会社員(被用者)の側にも、退職の法的自由はある。

単に、その先の「生計」の保障の有無云々の問題がある、というだけで…

 

自分が「奴隷」、特に「自発的奴隷」と見なしているポイントは、「自発的に思考を放棄・停止している」プロセスを、そこに看取しているからだ。

もちろん、生活内部の時間をしっかりと割り切り、「仕事は仕事、プライベートはプライベート」で、「自由」を確保している人ならば、そうした「自発的奴隷」には必ずしも当たらないだろう。

その人は、自らの判断で、「仕事」を「(生計・カネを得るための)手段」にすることに成功しているからだ。

自分が重視しているポイントは、その人個人の「自由」の確保の有無が、その「思考放棄」と強く関わってきてないか、ということなのだ。

 

「自発的に思考を放棄・停止する」の「自発的」というのも、微妙な部分ではある。

通常、年齢がいくほど、(特に家族・家庭的)しがらみが多くなり、行動の自由は利かなくなっていくものだからだ。

年齢がいくと、子どもの進学や住宅ローン、自分自身の高齢化に伴う備え、親のケアなどの課題というのは必ず向き合う課題となる訳で、そうした「家族的しがらみ」があると、「自分個人としての自由度」というのは利かなくなってくるのは普通だ。

「自発的に」というのではなく、「環境起因により」自由(な選択肢)が必然的になくなる、または狭まっていく、ということだ。

 

尤も、日本では世代間の断層が極めて大きく、真っ当な「対話」すら成り立ちづらい、という深刻な事情もあるが。

長期持続した不況による、昇給・昇進自体もさして見込めない、というところから、もっと若い世代は、経済そのものの縮小に伴い、結婚も子育てもままならない、というところへと転落してきている。

上(前)の世代ほど、「逃げ切り」が出来たのが、今の世代は、年輩であっても「逃げ切り」が出来るか否か、といったサバイバルを迫られる状況になっているし、若い世代は、そもそも文字通りの深刻な「死生線」上に置かれてもいる人も少なくはない。

 

しかしそれでも、「会社員」という身分の(差当りの)安定感・安心感には代えがたい筈だ。

ただ、自分にはどうしても、その安定感・安心感と、「思考停止」とを引き換えにしているように見えてならないのだ。

そして、会社員で構成される組織というのは、文字通り上から下まで、世代によるグラデーションはあっても、「思考停止」の成員によってしか成り立ってないのではないか。

 

あるいは、「思考余地」が残っていたとしても、その自由な時間や思考は、決して「会社のためには使わない」と割り切っている人も少なくないかもしれない。

彼らは、「仮面奴隷」「偽装奴隷」と言えるかもしれない。笑

割り切って、「会社や、組織の上から言われた業務だけやっておけばいい」と半ば諦め、半ば投げやりなスタンスに転じ、仮に気づいたことやアイデア、あるいは不満などがあっても「どうせ変わらないし、自分だけが言い出しっぺになっても、悪役になって変に叩かれるだろうからもういいわ」と何も言わなくなっていく。

どうも、近年噴出する日本の大企業の不祥事というのは、そうした「会社員の病理の塊」を見せつけられている気がしてならない。

(これは、自分にもそうした経験があるから実感としてよくわかるのだ。笑)

 

また、そこに仮に不法行為が含まれていたとしても、「どうせ皆もやっているから」と「赤信号皆で渡れば怖くない」式の「思考停止共犯系奴隷」へと転落していく。笑

 

では、会社員個人や、日本の組織、また日本社会にとって、救いはあるのか。

(回答すべき対象に対する)グラデーションはあるものの、「ない」というのが誠実な回答となるだろう。

「逃げられる」決断を下せる余裕のある人は、既に、またはいずれ必ずそれを行動に移せるから、そもそも問題ではない。

また、十分な余裕があり、今の時代でも順調な成長軌道を描いている「勝ち組」の企業やそこに所属する個人には無論関係のない話だ。

が、自分や組織が腐敗している・していくと分かっていても、諸々のしがらみから脱出することは容易ではないと、上述の各種「奴隷」へと、大多数の人々が転落していくというのが、殆どの場合に当てはまるのではないか。

 

自分が可能性を見出しているのは、おかしな言い方かもしれないが、「きちんと逃げおおせた・逃げおおせる人々」のうち、「日本社会に残る」ことを自分自身で(積極的にまたは消極的に)選択している人たちだ。

その人たちには、まだ「時間の自由や、思考の自由」が残されている。

「市民」たる資格や素質が認め得るだろう、ということなのだ。

 

悲観的な論調で書いてきたのに分裂的な結論と思われるかもしれないが、自分は日本社会に「絶望」はしてないのである。

 

無論、純粋に「自分個人とか身近な家族や友人のため」(=利己的目的)だけに行動する人はいるだろうし、それがもしかしたら圧倒的多数なのかもしれない。

ただ、そこにモヤモヤ感のある人もいるだろうし、そこに社会・法・公共・政治の回路を噛ませるほうが実際はトクで効率的だ、という部分に気づく人も出てくる、またはそこに向けて行動する人も出てくるだろう、ということなのだ。

自分がベットしているのはその部分だ。

 

自分は「革命」主義者ではないが、(小泉以来の)「構造改革」を「在野で、民間で」引き継ぎたいと思っているものだ。

したがって、自分が取る社会戦略は、「組織の内/外から、改革の動きへと突き崩す」方向と整理することが出来る。

日本人というのはスタンピードに弱いから、その手法・考え方の突破口を、各所に同時的に仕掛けに行けば、すぐに・全部を変えられないにせよ、段階的変革の糸口は得られる。

 

随分と迂回してしまった。エンゲージメントというのは、「自分が動けば変えられる」という実感・体験により加速的に向上していく。

日本の組織というのは、多重的かつ過重にそれを圧し潰す構造になっている、というだけで…

「収益性の向上」とか「イノベーション」というのは、実際はその先にあることだと思うが、目先の収益主義に囚われているため、組織トップから末端に至るまで「カネのための仕事」という「刹那主義中毒」が蔓延し、組織と個人総体が抜けられないスパイラルにハマっている、と言えるだろう。

しかし、組織内にいて、その「現実」を突き放して見られる人は、実は全員にまだ可能性(カード)は残されているのだ。どんなカードか、自分には必ずしも分からないだけで。

その人たちは全員、「奴隷」ではないのである。

 

法令遵守と学習意欲の乖離と背理

コンプライアンス」(法令遵守)というスローガンは、この10年余で、日本社会にすっかり定着した感がある。

実際に守られているかどうかや、理解が浸透しているかどうかは別の話であるが。

 

メディアとか大衆の「法感覚」というものにもいろいろ思うところはあるが、逸れるので詳しくは別の機会にしたい。

が、今回の記事の前提として、予めいくつかは言及しておく必要はあるのだが。

・「法は当然守らなくてはならないもの」という「真っ当な法感覚」自体が希薄な部分や、そのための訓練そのものが欠如・不十分な部分が多すぎる

・また、その前提として各種「法」エスタブリッシュメント(「法」に直接関与するエスタブリッシュメント)の恣意性が強い、またはそのような印象を大衆に与えてしまっている

・教育課程や大人になってからの、法リテラシー・政治リテラシー涵養やその機会自体が希薄

・法や法構造・法理論、法言語(法を語る・記述する言語)の必要以上の複雑さと分かりづらさ

・日本人の事大主義・権威主義・専門家(資格)主義による「思考停止」と「丸投げ」

etc.

 

自分も業界や業務柄、法令とか法改正の知識・情報には敏感である、少なくともそうなくてはならないのだが、「コロナ禍」のもとの諸政策で、精神自体はともかく、「積極的な学習意欲」そのものは、一挙に減退するのを覚えていった、という経験があった。

今回はその経験について簡単に語りたかったのだ。

 

安倍政権下では特に、「閣議決定で、〇〇を△△と決定した」という文言を、頻繁にメディア上で聞くようになった印象がある。

これが自分には、中国の故事成語(「鹿を指して馬と為す」)からの連想で、「閣議決定で、鹿を馬と呼ぶことに決定しました」と毎回連呼されて、神経がマヒするような感覚を覚えていったのだ。

政治家が、自らの権力と権威で、法とか、政治的現実を恣意的に支配するのを、ひたすら目の当たりにさせられ続けてきた、ということだ。

 

もっとも、これは良し悪し関係なく、という部分もある。

つまり、政治家がどうという以前に、社会と世界の変化が激し過ぎ、政治や法の対応のスピード感へのニーズが圧倒している、という状況があるからだ。

 

が、やっぱりいざ出来上がってきた法律だの政令だのを見ると、業界当事者からは、「?????」としかならない訳の分からない論理や規則、手続きの流れだらけの羅列に過ぎなかったりする。

「法」というのは、本来、混乱した社会やその秩序を再整理して方向づけるところに目的がある。

が、現代はその逆に、「法」そのものが徒に社会を混乱させ疲弊させる元として作用する部分もまた少なくない、ということなのだ。

 

コロナ禍というのは、状勢の時々刻々の変化の中で「朝令暮改」を迫られる状況だった。

上述の通り、政府の出す法令の中身や論理、方向性がぐちゃぐちゃだと、「一体何がやりたいんだよ?」と、一挙に怒りが噴出し、それは瞬く間に「無力感」へと変わっていく。

それは、政治家や官僚に対する感覚とイコールでもある。

「こいつら、ここまで愚劣で無能だったんだ」という…

現場に関する知識や情報がないと、法や政策というものが、いかに実態と乖離した非現実的なものになるのか、という話なのだ。

 

また、法や政策というのは、読み込み、理解するのにも、また人々に周知徹底するにもそれなりの時間がかかるものだ。

現代のように巨大化・複雑化した社会は、そもそも「朝令暮改」には適応できないようにできている。

無論、権力により、無理くり法や政策を決定し施行することはできるが、それをすれば社会の混乱と消耗・疲弊を惹起するのは既知である。

 

馬鹿げた法や政策、またその連続のもとでは、「頑張って学ぼう」という意欲そのものが空洞化する。

「法で最低限決められたことだけ守っとけばいいや」という投げやりな姿勢へと変貌していくのである。

 

権力には法を定める所定の権限があるかもしれないが、「コンプライアンス法令遵守)」を含めた「法感覚」というのは、ただ法で決めれば方向づけられる、というほど簡単・単純なものではない。

政治と法の公正さや信頼感があって、初めて成り立つものなのだ。

安倍政権(以降の自民政権)というのは、「権力の恣意性」に溺れて、そうした「市民的現実」から遊離・乖離していった政権なのだと思う。

 

腹が立ってくるのは、「メリットもないのに、時間や労力、情報ばかり搾取してくるな」という規則ばかりを押し付けられることなのだ。

守ってもトクすることが少しもなく、「役所から一方的に搾取される」ことだけが降りてくる。

さらに、せっかく行政のIT化を推進しているのに、それをろくに活用することすらできず、これまた混乱のもとになってしまっている。

 

「法・政策の愚劣さ×政治家・官僚の無能×それによる社会の混乱」によるアパシー(政治的無関心)は頂点に達する。

こうした混乱で活躍できるのは、その隙間を突いて利を生もうとする詐欺師やフィクサーの類であり、そうした動向は無力感にますます拍車をかける。

こうした連続性の中を、どうにかくぐり抜けたコロナ禍の3年間だった、と振り返ることが出来る。

自民裏金キックバックを「還付金」と言い換えるNHK詐欺

NHKのニュースを見ていたら、自民党裏金問題報道で、キックバックを「還付金」と称していて驚愕しかなかった。おおかた官邸サイドの「指導」が入ったのだろうが、一体、「振り込め詐欺」のよく使う口上とどこが違うというのだろうか。NHKの左翼偏向を嫌って「政府の犬」へと「大本営発表」機関化させると、国民側があっけなくこうした落し穴にハマるという好例。

 

自民 聴き取り結果 “還付総額 おととしまでで5億7949万円に” | NHK | 政治資金

 

 

 

 

「生きてなさねばならぬ事」があるか

気候変動と戦争で加速する食糧危機は、既に身近に迫っているのだろう、と感じ取っている。

食糧危機と、危機に際しての自分がどうふるまうとか対策を講じたいか、の前に考慮すべきことは、「生きてなさねばならぬ事」があるのか、という自問に答えを出しておくことだ。

弱いと言われようが、片方で厭世的な自分がいて、水だけ飲んで最後は餓死でもいんじゃないの?という(深刻な飢餓を体験したことのない空論で)方向に傾いてしまう自己もいるからだ。

 

シミュレーションしたり対策したりそれに動いたり、というのは、実際のところは内容に大小の難しさはあるだろうが、「やる」自体は実際は方向性を見出せば可能とみるべきだ。

じゃあその先、どこに向かう・向かえるの?というのが最大の問題だ。

自分の生きる方向性、そちらに「命」をベットしてもいいという目的地点がなくてはならぬ。そうでなければ、「(生命)力の根源」が湧いてこないからだ。

前も書いたが、「人を殺して押しのけてでも何としても生き延びてやろう」といった本能的な生存意欲という点では明らかに弱いし劣っている。

「強さ」を内面的に強化するには、「知と理」がどうしても必要なのだ。

 

片方でこれまた自己本位だが、はっきり言って、人類も地球も知ったことじゃない、という気持ちもまたある。

今の終末世界を招いたのは人類の自己責任によるものだからだ。

別に「馬鹿な人類」と無理に歩みを共にする必然性はない、というスタンスもありだろう。

 

わからない・見出してないのは「暮らしの先」だ。

「人類の中で、自分にしかできないこと」があるなら、例えば、それで人類文明全体の寿命が少しでも長くなるとかなら、それは自分固有の、「生きてなさねばならぬ事」と捉えることも可能だろう。

食う食わ(食え)ないの先に何があるのか。

 

そうなると、どんな終末世界が現出するだろうか。

この場合は暴力ではなく、資源(食糧や文明に必須の石油・半導体)と、その産出・交易に関与できる国、なおかつ気候変動・気象災害の影響度が低い国に、次第に「力」と「富」が偏っていくだろう。

しかし、同時にそこには難民も向かっていくことになる。

すると、どこの国だろうといずれトランプ的な壁を設けてブロック・ゲットー化していく筈だ。そうすれば、確実に衝突・紛争から戦争も起きてくる。

 

そして、気候変動は、地域差はあれ、いずれどの国もほぼ同じような状況に陥っていくだろう。

逃げたとして、「逃げた先が独自資源で持つ年数」の違いはあるから、「生き永らえる安心感」を「一時的に」得ることはできるかもしれない。

あるいは、「生存戦略」としては、「安全な地を逃げつないで凌ぐ」というのもありかもしれない。

その間に、人類文明全体が存続する、よりマシな手立てが見つかるかもしれない。

 

ここまで来てようやく、自分自身が感じる「焦りと不安」の正体が見えてきた。

「固有の資源を持たないのに、急速に経済社会が貧困化する日本で生活しているのに、必要ならそこから脱出する準備や環境も整ってない」状況に対して、である。

早い話が、日本の国も社会もまるで信用していないのだ。

にもかかわらず、代替選択肢を自分で準備できてない。その愚かしさと無為に苛立っているのだ。

 

一方で自分は、生きるも死ぬもどうでもいい、という割り切った姿勢もある。

前にも書いたが、重要なのは、いずれにしても納得できる生き方・死に方を選びたい、ということだ。結果がどちらかというのはどうでもいいことだ。

過程を自分で納得するまで考え抜いて、それを実行に移せていれば、終末が死だったとしても後悔せずに済む。

 

日本を信用していないというのは、日本を見放している、ということか。

そうかもしれない。

生き続けられる保証や確率が見いだせない限り、見放しても仕方ないのではないか。

じゃあ、どこかには行けるのか、行った先には生活があるのか。そこは資源があり、戦争や気候変動のリスクが比較的低く、国内治安も保たれるのか。

そこで、自分が「食う」だけでなく、「なすべきこと」を見出して「暮らしの先」を指し示せるのか。

 

上で述べた通り、終末が生か死かは結果的にはどちらでもいいことだ。

しかし、考えられる・知を振り絞れるうちは、そしてまだ資源が少しでも使えるうちは、準備できることは準備しておきたい。

「これから、どこで、何が起きるのか」シミュレーションを集めまくっておく。

それぞれの地での、可能な生存策を知っておく。

その上で逃げるか逃げないか、逃げるならどこにどう逃げられるのか、その先で何を成すべきか。

 

「命のひりつく」難しいベットを強いられている、な。

 

古代文明の頃、あるいは文明開始前のように、「とにかく0からでも額に汗して生きていく」ような暮らしが、気候変動×戦争の先もあり得るなら、そこに賭けてもいい。

あるいは、「宇宙脱出」が最も面白おかしく、なおかつ結果的に人類の存続につながるというならそれに向かうのもありだ。

反対に、いずれにしても死しか待ってないというなら、ただふさわしい「死に場」を求めに行くだけになるだろう。

「護憲老人」は戦争を食い止められるか

ガザ危機により、一挙に「世界大戦」の構図が明確化した観がある。

ウクライナ戦争は、そうはいっても「NATOvs.ロシアの局地戦」の色合いが強かったからだ。

(本当に米欧を「民主主義」陣営と見なし得るならば)「民主主義(=米欧イスラエル+日本)」陣営vs.「権威主義(=ロ中朝イラン)」だ。

ロシア・イランはハマスを支援している。

「グローバルサウス」は、「民主主義」陣営とは言い難いが、一概にロシアに味方するという訳でもなく、「自分たち自身の生存」を第一義に考えているのではないか、と捉えている。

 

日ごろ偉そうなことを言っていても、欧州は所詮イスラエルの味方に過ぎないし、米国はそのエゴを国連でも平然と露にすることも世界で改めて明らかになった。

ロシアが、結果的にはパレスチナの味方をしている、という皮肉な構図となっている。

無論、パレスチナ問題というのは歴史的な積み重ねの結果として今がある。

個人的には、サウジやUAEイスラエルとの国交正常化を行うことで、パレスチナ問題は「なかったこと」にされるのかと勝手に思っていたら大馬鹿で、アラブ人は今なお強烈な連帯の感情をパレスチナ人に対して示している。

これまで蓄積された強烈な怒りの感情が、一挙に爆発したのだ。

 

筆者は、もうずっと前、安保法制騒ぎの前後に、いずれ日本も何らかの形で戦火に巻き込まれても仕方なかろう、との腹積もりは何となく立てていた。

冷笑系」と言われようが、はっきり言って、そのこと自体は殆どどうでもいい、と捉えている。

「自分には関係ない」と思っている訳でも、「自分が巻き込まれてもいい」と思っている訳でもない。また、「むしろ戦争が起きて欲しい」と欲求する「戦争願望論者」という訳でもない。

「戦争・戦火でも、何が何でも生き延びたい」との欲求には、今のところ欠けている。

いずれ巻き込まれるとして、「じゃあその戦争に対して、自分はどう処したい・処すべきなのか?」はまだ判断できてない。

既に、「これから現実に起こること」に対して、どうしたい・すべきか?に興味関心はシフトしている、(かっこよくいうなら)「現実論者」と言えるだろう。

 

一度めちゃくちゃになったものを、元に戻すことはできない。

「覆水盆に返らず」だ。

押し止められるのは、傷の浅いうちに留まる。

あとは、最高指導者が死ぬなどの大きな内部的な転換の節目を迎えるか。

 

「戦争の見通し」とまでなると、本稿の目的を大幅にはみ出てしまうが、ガザ危機により、米国に一挙に不利の展開となったことは間違いない。

「漁夫の利」を得かけているのは、台湾進攻を目指す中国だ。

中国は完全に無傷のままだ。といって、国内経済の不況は深刻化しつつあり、不満を逸らすために、いつ、どのような形でカードを切りに来るか。

 

日本が直接戦火の影響を受け得るのは、ロシアの北海道侵攻・北朝鮮のミサイル着弾を除けば、台湾海峡危機が最も濃厚だ。

そうしたリスクは、既に国民にもかなりの程度可視化され、認識も共有されつつあるのではないか。

 

最近、近年の政治史的過程を振り返るだけの余裕が出てきて、私的な整理を進めようとしている。

「安保法制」騒動時は、冷ややかというよりは、呆気にとられていた、というのが実際のところだ。

(昔、別のブログで感想を書いたこともある)

当然、親も反もなく、何のかかわりも持たなかった。

 

結論から言うと、「護憲老人」には、「戦争を食い止める」力はない。

理由は簡単で、彼らには中国もロシアも北朝鮮も、イスラエルも動かせる何らの政治力も持たないからだ。

そして、国内でも大衆を動かすだけの力すら持たない。

「護憲老人」すなわち「政治的敗者の小集合」に過ぎない。

ウクライナ戦争を通じて、初めて欧州までもが、「被爆国としての日本とヒロシマ」に注目したのは有益だったが、あまりに遅すぎた)

戦争を食い止められるとしたら、全く別の要因によるものだ。

 

ただ、いざ戦争が起こるとなれば、何らかの関与を迫られる可能性が濃厚だ。

というより、ただ「生き残る」という意思表示あるいはその行動をするだけでも、関与してしまう可能性がある。

少なくとも、「来たるべき戦争」に対しての、自分のスタンスは明確にしておく必要がある。

今までのように、ただ「護憲老人」を嘲弄していればいい段階は過ぎたと見るべきだ。

 

戦争そのものに加担したい訳ではないが、それも絶対的なものとは言い難い。

歴史を知っているだけに、「戦火で生き残る」ためだけでも、時に狡猾さや政治力がものをいうことも知っているからだ。

「バカづらをさらして無駄死に」するのだけは御免だし、だからこそ、無能でどこまでも政治に従順な大勢の日本人と同調しようとはまるで思わない。

しかし、まだ余裕があるならば、そして知恵や知力を絞る余裕があるならば、「自分が生き残る」ためだけでなく、「人も生き残る」ために、その余力を遣いたい。

しかし、「どのように?」かは、まだ分からない。

 

「持続可能性なき世界」での「死に方」…?

最近は、戦争と気象災害激化によって、すっかり「未来のこと」を大真面目に考える気力が失せている。

「未来」を信じる根源がどこにも見当たらないからだ。

 

逆に、「災害リスク」が、いつ、どのような形で顕在化するか、その時自分はどう振舞いたいか・振舞うべきか、ということに、思考の比重が移っている。

自分自身、本来は楽天的で、こうした悲観的なことを考えることは好まない。

が、楽天的と同時に、極めて現実的でもある。

どうも、単に日本が・日本人が、というのでなく、世界全体に対して「アカルイミライ」をとても信じる気になれない。

 

かといって、心配で夜も眠れない・飯も喉を通らないというほどの心配性という訳でもなく、「今の立ち位置」の判断を決めかねた宙ぶらりんの状況、と言えるだろう。

今の自分の関心事では、はっきり言って、

「目先に起き得るハザードリスク>自分の未来・将来(を見据えた現在のアクション)」

となっているのだと思う。

 

それというのも、ハザードに対する現実的なシミュレーションやその対策、それに必要な知識・情報が不足しているからだ。

それ故の「(いざという時の)覚悟」が不十分で、中途半端な「不安」に脅かされているのだ。

 

自分でも困っているのは、「何としても生き延びてやるのだ」という強い意志力に欠けている所だ。

といって、別に災害が来たら死んでもよい、と割り切ったり、投げやりになっているのではない。

「人の生を押しのけても何としても生きよう」という根源に欠けている。

また他方で、あれこれクヨクヨ悩んでも仕方ない、というほど楽観することもできない。

 

災害時の「生き方・死に方」そのものが、自分自身の中で茫漠としていて、決めかねているのだ。

それもこれも、災害時の「強み」も「信念」も、未だ十分に確立されているとは言い難いからだ。

 

今は、「人事を尽くして天命を待つ」と言えるだけの準備はしておきたい。

「死ぬこと」自体が嫌なのではない。

十分に自分の「死に際」を考えないうちに、「その日・その時」を迎えてしまうのはやはり抵抗がある。

もし、リスクが表面化するときが来るとしても、それに備えて、今の自分にできることはしておきたい。

(それが「武士道」なのだ、という直観を持っている)

 

「死ぬこと」「死に際」を前提に書いたが、別に、当然「死にたい」訳ではない。

今の災害リスクは、全く楽観できる状況にないからだ。

そして「死に際」までの時間を稼げるならば、きちんと「自分の仕事・本領」を残しに行きたい。

 

時間がない、といった時に、どの程度の「残り時間」を見積もっておくか。

それにより、「事前準備」に対する心構えも変わってくる。

前提となるのは、「リソースや、知識・情報が不十分な中での準備」になる、ということだ。

それを踏まえて、「生きる手立て」、場合によっては、「死に方・死に場」を考える。

 

「リスク」を踏まえつつ、「リスクが起きた場合」「起きないままの平和な生活」の両様を考えた上で生活を送る、というのは結構難しい。

準備もそうだが、心構えをつくっておくことが何より難しいのだ。

自分の生命もそうだが、「世界」にも残り時間は限られている。

その時間を大切に噛みしめながら、一日一日を送っていく。

ささやかだが、それだけが今の自分にできる「覚悟」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SNSとの距離感と、「ナマ情報」への生理

現代人の社会生活からはSNSが不可欠となって久しい。

各人の目的により嗜好により、様々なSNSを使い分けている筈だ。

筆者自身は、「個人的な積極的発信手段」としてのSNSは、ブログだけにしている。

(他にもこまごまと挙げることは可能だが、「主力」としては、という意味合い)

 

ツイッター(現X)も、数年前まで、廃人レベルでやっていたこともあるが、次第に頻度や比重を減らし、今や見る専アカウントまで削除するに至った。

SNSは、無視してないし必要でもあるものの、「結構な距離感」を持って付き合うようにしている。

変な「大衆トレンドや流行」を、自分の生理に入れたくないからだ。

「すぐに処理できないナマ情報」も同様である。

 

自己内部の「情報過多」を注意深く避けるようになった訳だ。

ブログベースにしたのは、「情報収集」ではなく「発信」のみに比重を置くようになったからだ。

(人のブログは、興味ベースではあまり見ることがない)

 

「ナマ情報」というのは刺激が強い。

色々なきっかけになり得る反面、処理できるキャパがないと、徒らな混乱を招くリスクもまた存在する「取扱要注意」品なのだ。

アンテナは可能な限り拡げておきたいという気持ちがある一方で、「それだけの器がないと受け止められない」という現実的な見方もしている。

ブログ発信というのは、その「器」としても位置付けている訳だ。

 

また、「ナマ情報」には「ノイズ」も非常に多いし大きい。

というよりは、大半はそうだと捉えても良いだろう。

偽物も多ければ、重要性がない・薄いもの、単なる宣伝なども非常に多い。

 

しかし一方で、「情報収集」もまた不可欠である。

良質かつ必要な情報だけで満たすためには、フィルタリングの能力や環境の精度を不断に高めていくよりない。

 

SNSへの距離感があるのは、「関係重視」の生活ではないからともいえる。

というより、個人的な「リアルの人間関係」と「ソーシャルメディア」を、ある程度区切っている、というのが正確かもしれない。

一緒くたにする必要が特段ない、と気づいたのが大きい。

(そうした「関係構築」のあり方というのは、現代ではやや特殊かもしれないが)

 

現代の情報の洪水の中で、「ナマ情報」に溺れたくないために、実生活上も様々な工夫を凝らしているが、その一つがSNS対策と言えるだろう。