初めての「プチ政治」の歩み出し?

(具体的内容は含まれていません。筆者の抽象的経験談のみの記録として)

初めて「プチ政治」をやっているな、という実感を得ている。

「期せずして」という言葉がぴったり来る。

と言っても、どうも「まるで手応えがない」くらいの相手だが、だから「リハビリと肩慣らし」にはちょうどいいとは言える。

「先に進むのか、どう進むのか?」はまだ見えないからだ。

でも、一応「どう転んでも良い」ように想定は巡らしてある。

「万全」というよりは、元々複雑性を要する要素そのものが多くない、というだけだ。

 

とは言え、「相手がどう出てくるか?」はフタを開けないと分からないし、楽しみな部分もなくはない。

というか、選択肢を「こちらから示した」のである。

どれで来るのか、組み合わせなのか、それともこっちの「予想外の手」を持って来るのか?

相手が「無能」な分、こっちに「主導権」を圧倒的に握れた展開だからこその余裕。

 

結果云々よりは、「過程」を楽しめるし、楽しんで行きたい。

 

「毒喰らわば皿まで」-腹を括る

米大統領選のトランプ再選、兵庫県知事選の前知事再選という結果を受けて、自分の中でも「一本線がつながった」感覚を覚えた。

「トゥルーサー(真実創出者)」という独自用語を用いているのだが、生成AIやSNS隆盛下では今後、技術×政治力を巧みに組み合わせた実力者が、任意に「真実を創出し、社会的に認定」される社会が到来した、と見ていいだろう。

民主主義社会下においても。法(法の支配と法治主義)も既存メディアも、手続きを通じての「権力チェック」ではなく、今後は「既存権威・権力の追認」の役割へと一挙に後退せざるを得ず、いずれは欧州も米国同様、「権威主義国」に転じていくと見ていいだろう。

 

そうした見通しの中で、自分はどのようなバランシングをすべきか?ということを考えてきたのだ。

結論から言うと自分は、「法」と「トゥルーサー」の「中間・中庸」の位置を保っていくことにしている。

そこにしか、自分の「義」は見出し得ない。

 

やや大胆な踏込みかもしれないが、「米中新冷戦」(?トランプ再選によりどのような構図になるかは不明だが)は、超長期的には、(「戦国時代」を経て)「ロ中朝の勝利」に終わる、と見ている。

なぜか?

基本的に、「新興国は、権威主義を支持する」からだ。

部分的には民主化・民主主義運動が占める社会もあるかもしれないが、全体趨勢としては、権威主義が占めていく。

そして、米国は、トランプ再選を通じて、「権威主義」への旗幟を明らかにした、と見ていい。

もっとも、米国の場合は、一国主義・保護主義が軸となっており、単純な「権威主義的連帯」の構図とはならないわけだが。

 

もう「民主主義は敗けた」と見なしているのである。

敗北主義と見なされようが、そこに抵抗はしない。

「時間のムダ」だからだ。

やりたい人間は、メディアに入るなり、老人左翼運動に投じればよい。

 

自分はだから、恐らくは一種のマキャベリズムを採っていると見てもいい。

「法」と「トゥルーサー」、どちらにバランスされているかを常に眺めて態度を決める、という。

 

「法」と「民主主義」は、無論「信じたい」ものではあり続けた。

しかし、既に今は(日本も含めて)「権威主義」へと振れてしまった、ということなのだ。

その現実を率直に認めるところしか始まらない。

今はしかし、その「過渡期」でもあるということ。

だから、上述のバランシングの余地もまだある訳だ。

 

今まで当ブログでも述べてきた通り、現在進行中の「戦争×環境・資源危機」が急ピッチで加速化していく。

そこでは、既存の「法」だの「民主主義」だの馬鹿げた手続きを守ることは無意味化していく。

では、自分もそうした「権威主義者」に投じるのか?

否。

では彼らに「抵抗」するのか?

それも否。

 

「不関与のまま、自分単体のみが生き残る」途を、基本的には選びたい。

が、もし関与を迫られたら、上述の通り「中間・中庸」の地点を巧みに選び抜く、ということ。

「法」と「民主主義」を「カード(=力)」として使える分には活用していく、ということだ。

それは、いずれは「全体主義」に飲み込まれる、ということかもしれないが。

「毒喰らわば皿まで」というのはその見通しのことだ。

 

「ファクト」は、「フェイクトゥルース」にいずれ飲み込まれていくだろう。

「ファクトチェック」という営み自体が、恐らく間もなく無意味化していく。

 

「守りたいもの」があったとして、それが(自分一個人の生命や財産であっても)もはや簡単には守り得ない。

「何に賭ければ」それを守れるのか?

使えるうちは、「法」と「民主主義」への「義理は果たしたい」。

が、「権威主義」下では、それらを「信用」する意味や根拠がそもそもないのである。

 

そして実は、それらより重要なのは、「自分が自分に、ウソをついていないのか?」ということだと考えている。

「自分で自分を騙す」というのは、「自己というデータログ」を辿った時に、必ずエラーやバグが見つかり、全体の歪みをもたらすことになるのである。

そして、一度でも「自分で自分を騙す」ことを容認すると、もう引き返すことが出来ない。よく言うように「ウソをウソで塗り固める」ことの連続のみが待つことになる。

 

「自分で自分を騙す」というのは、「自分よりも大きく、強い、抵抗できない何か」に屈することで生じると思っている。

「義」というのは、まさに「自分で自分を騙さない」ことだと考えている。

「フェイク」か「トゥルース」か「ファクト」か、というのは、実は「人が決めること」ではないのである。

 

「法」と「民主主義」を「カード(=力)」として使える分には活用する、というのは、別に「義」として信じているというより、自分に言わせればプラグマティックに選んだ手段に過ぎない。

しかし、あとから自分というものを振り返った時に、「どこにもウソがないな」という「信頼できる自分のデータログ」を残せるな、という差当りの現実主義的判断に根差したものと言えるのである。

 

未だに「保革論争(?)」する連中の脳と狙い…?

(あまり具体的な議論をしていません。政治社会史整理の「心理的準備」という、「主観的作業」に終始しているのでご注意下さい)

 

選挙完了を好機に、これまで積み残してきた「近年日本政治史」の推移を追いかけることにした。

当面特にポイントにおいたのは、「維新」(大阪維新の会日本維新の会)史。

それだけを重視しているのではないが、「なぜ維新?」と問われても、あまり上手く返答できない。

同垢別ブログseijishakaishiで、故安倍首相について触れたが、その「双璧」的存在として、現代日本政治と社会を象徴する存在であると「直感」するから、としか言えない。

「安倍晋三回顧録」を読む - seijishakaishiのブログ

 

「選挙完了」を「好機」と見たのは偶然ではなく、いったん今回の結果も含め、(特に自民裏金問題を焦点に)「アベイズム」に一定程度、「区切り」がもたらされるのではないか、と見たからだ。

ようやく「アベ」から「距離感」を取った目線で眺め得る、ということ。

 

自分が今のところ読んでいるのは、読みやすい新書レベルしかなく、おまけにkindleでレコメンドされる本ばかりなので「偏っている」と称されても仕方ないかもしれない、という前提で…

既に、「維新」の「正体」とか、その政治像というのは少しずつ掴めつつある。

しかし自分は、「返す刀」というのも大切、と感じているのである。

 

「アベは保守ではない」「橋下徹は保守ではない」の類の言説は腐るほど見てきた。

その趣旨は何となくは分かるつもりなのだが、本当にそういうのを見かけるたび嘆息してしまう。

「一体この書いている連中は、どんだけ昔で頭脳が停止してるわけ?何のための『保革』論争を仕掛けようとしてるの?」

と感じてしまうのである。

 

自分の結論は、その手の言説の「正当性」はある程度認めているのだが、「今の日本の『保守』は、『ゾンビ左翼』以外に残存していない」という「逆説」的結論となる。

一応、「保革」の「筋論」が「全くの無意味」と見ているわけではない。

が、その「目的」や「存在意義」に対しては非常に「懐疑的」というわけだ。

 

「『保守じゃない』から、一体何なわけ?」

としか思えない。

論者の趣旨は、「(それら論者の観るところでは)『保守』ではない」連中が、「保守だ」と「自称」していることと、また「『保守』的伝統(?)」が「破壊」されていることを問題視しているのだ、と捉えてはいる。

が、それが分かったうえでも「だからどうした?」としか思えない。

 

自分は希少な部類と自認しているが、「ゾンビ左翼」や、古株評論家連中にも一定の「存在価値」は認めている。

「どこが?何を?」と言われるとまた難しいのだが。

「思想史的な筋」論の整理をしてくれるからだ。

問題は、その「思想史的な筋」そのものに、何の「存在価値」もなくなってしまった、ということなのである。

 

「ゾンビ左翼」や古株評論家連中というのは、本当に文字通り、完全に「思考が停止」しているのだ。

しかし、だからこそ、彼らの主張する「筋」を「歴史的にたどりやすい」。

つまり、本当に純粋に、「思想史的化石」としての価値ということなのだ。

(そこで言うならば、例えば今の日本共産党社会民主党は、一種の「無形文化財」として扱うべき、と言ったところかもしれない。笑)

 

しかし、「ゾンビ左翼」や古株評論家が、その手の「化石的主張」を「現実に通用する言説」と信じ込んで(?)主張するのは、「マジか!?ガチで未だにこんなこと考えてるわけ?」と驚愕しかない。

ただし、「ゾンビ左翼」や古株評論家の固有の「実定的」な社会的価値も一応はあり、それは「ファクトチェック」のみに限られる。

 

「ゾンビ左翼」や古株評論家の言説に付き合うのは、「本当にキツイ」。

内容自体の難しさはない。これまた、良くも悪くも有難い(?)ことだが。

その数十年前で「化石化」したスピーカーに未だに付き合わされるその「苦行」のキツさ、ということなのだ。

 

「そのくせ、貴様はそれを有難がって読んでいるではないか」と突っ込まれたら一言もないが。

自分は、良くも悪くも、その手の論者も一向に信用していないが、「不信度合いの付き合い方」というものは確立している。

それは、(彼らが「『保守』ではない」と主張する)「アベ」や「維新」よりは、まだ「付き合い方」「距離感」の見極めが付いているから、というに過ぎない。

一種の「目印」として活用している、というのが少しわかりやすいだろうか。

 

「思想史的な筋」論で言うなら、「安保法制」騒ぎをどう見るべきだったかというのが、一応は自分のスタンスとしては固まってはいる。

ただ、「安倍政権」総体の評価は無論、まだ見極めが付かない。

現自民や政権次第でもあり、「見極めが付く」段階とも言えないだろう。

 

自分が狙いにしているのは、「権威主義」と「法(法の支配、法治主義)」の行方ということだ。

それは、「戦争」「資源危機」とも密接に絡んでくる筈だ。

自分が、「ゾンビ左翼」や古株評論家の「保革」論争が無為かつ無意味だと思っているのは、それらがこの難局にも難問にも、「何の答えも与えない」し「何もしようとしない(というより出来ない、能力がない)」からである。

彼らのスタンスは一貫していて、「何の責任も取ろうとせず、批判だけをする」ということである。(その一貫性は、「悪くも信用できる」と唯一断言できるポイントではある)

 

彼らは既に、例えば戦中の清沢冽の「暗黒日記」よろしく、「無能かつ冷静な観察者」になろうとしているのかもしれない。

だとするなら、「本当にお前らはダセーな」としか思えない。

つまり、「戦後の反省」が結局何にもならず、結果から言うなら、「ゼロ回答=成長0」と言わざるを得ないからだ。

 

「何も生み出さなかった」連中を、人々が、大衆が評価する訳がない。

というより、終始一貫して「批判だけする、他力本願であり続ける」ことに、「ゾンビ左翼」や古株評論家のアイデンティティがあったのだろう。

 

といって、「じゃあ自分がこれから何か生み出せるか?」というのは、「そんな時間があるのか?」が甚だ疑問となる。

「戦争」は、既に目前に来ているからだ。

「事後でも間に合うように」、またそうしたものを生み出しに行くよりない。

 

結果、「何にも乗れない」かもしれないが、まあそれはそれで仕方ない。

「無力な学問」に歯痒さは覚えるが、こっちの都合で、「いきなり成熟」はしてくれない。

 

権威主義」と「法(法の支配、法治主義)」の行方については、引き続き当ブログでも(実践的に)フォローしていくだろう。

首長に会う

(裏話・暴露話的な内容は含まれません。筆者の抽象的感想のみとなっておりますので、具体的内容を期待される方は即バックをおすすめします)

 

自分が住まう自治体の首長に初めて会った。

仕事で、しかも膝詰めの会談という形式になったのも、無論初めてのこと。

役所の担当者とは日常的なやり取りがあるわけだが、首長と直接のやり取りというのは未経験だっただけに新鮮だった。

 

そもそも、自分は前回の首長選に行ったか記憶がなく、投票に行ったかすら分からない。

それもあり、なおさらその首長への印象は特になかった。

しかし、話した感じは、引き連れた何人かの役人には特に頼らず、首長自身の言葉で語っており、まずその点で信用ができた(もっとデクの棒みたいな人を想定していた。笑 失礼な話だが)。

 

内容そのものは、やや意外なものも含まれていただけに、首長自身が自らの言葉で語る、ということに最も重みを感じることが出来たのが良かった。

想定していた内容から斜めを行く展開になった、といったところ。

しかし、語ってもらった内容そのものは、納得のいくところもあった。

 

当ブログでは、恐らく直接的な内容そのものについては触れないだろう。

が、当然ながら、政治・行政的関心を直接刺激するものとして、各方面を深める契機となっていく筈である。

 

意外に大きかった「政党・知人」バイアス

今回の選挙後、友達と電話でその結果について電話で話す機会があった。

自分も彼も、期日前投票で投票したが、投票先政党は違っていた(居住地も異なる)。

 

前にも言及したかもしれないが、自分は政治や政策は好きだし、関心も持ってきたが、「選挙や議会制には興味を持たない」という特殊な関心のあり方で推移してきた。

選挙もかなり長く行ってない時期もあったし、近年も国政選・地方選とも「毎回行く」皆勤タイプではない。たぶん「選挙」「議会制」には比較的最近興味が湧いてきたというべきだろう。尤も、今回はそれ自体が本題ではないので別の機会に譲りたい。

 

今回の投票結果全般に関する分析という話ではない。

実は、自分の昔の知人が、選挙に出ているのだが、そのことをその友達と話した内容についてである。(その知人と、自分の友達は直接の関係はないが、知人の活動状況に興味を持ったので前に色々話したことがあったのである)

 

その知人は選挙では敗けたのだが、友達の状勢分析が鋭くて、自分とは著しく異なっており、意外と自分は「政党・知人バイアス」に支配されていたのだ、ということを実感したのだ。

というより、自分は「選挙」「議会制」というものに無頓着なせいで、あまり深いリサーチや考察というものをしてこなかった。

すると勢い、判断や行動が「主観」に流されがちだった、という意外な事実を突きつけられたわけだ。

それはその知人の結果分析に関してだけでなく、自分の「投票行動」それ自体にも言えたのである。

 

その知人の出馬は初めてではない。

友達は、「今回の選挙でダメならもう見込みがないんじゃないの?」と冷徹に言い放った。

彼の分析をよくよく聞くと、非常に根拠があって、自分の「状勢次第では勝てていた」という「思い込み」とは著しい懸隔があった。

 

その知人が「惜しい、今一歩」である(というのは自分も感じはしていたのだが)というのも、友達から指摘されて実感したことでもある。

以下は割と細かい話になる。

その知人とは、短期間だが、ある活動で親しく共に過ごしていた時期もあり、「その友誼から」彼の以前の出馬の際に、非常に少額だが彼の後援会に寄附を行ったことがあった。(ネットで簡単に寄付できる仕組みが構築されていた)

当然、彼は敗けたために、「金ドブ」になってしまったわけだが。

自分も少額とはいえ「支援者」には当たる訳なので、敗戦後は、その知人から謝罪なり申し開きなりがあるかと思っていたが、何もなかったのでやや拍子抜けして終わった、という経緯があった。

が、「まあ、そんなものなのかな?」と思い、特に気にするともなしに忘れていた。

 

電話で思い出して、友達にその話をしたところ、「いや、それはする人はするし、だから差がついてるんじゃないの?」とも言われて、「確かにそうか」と納得する部分もあった。

「華」「運」「実力」全体において、「あと一歩」足りていないのだが、それを「これから果たして、埋め合わせられるのか?またいつまでに?」というところに対し、意外と懐疑的な結論で終わってしまったのである。

「続けていればいつかは当選できるものなのか?」はよく分からない。

結構な「茨の道」なのは間違いない。

 

自分の「政党」バイアスの意外かつ無根拠な大きさも、自覚してみて驚いた部分でもあった。

しかしそれは、かつての「名残」というものと、「選挙そのものへの無関心」が相まっているという部分が大きい。

 

民主党政権の失敗以降、「政治的自己疎外」が起きていたが、近年の「群小政党」の勃興でに興味が再び刺激されたという面がある。

自分は「政策本位で」「政党に」何かを期待する、という判断やアクションがないからこその「根拠ある無関心」ということもできる。

ただ一方でだからこそ、「何目的で・どのように政党を眺めるのか?」というスタンスや視座がないというべきかもしれない。

近年の「政党史」に関しては少し興味が出てきているので、それを同垢別ブログ(seijishakaishi)のほうで整理しようかという目論見がある。

その中で、自分なりのスタンスが見えてくるかもしれない。

 

「時計恐怖」と、「時を前に進める」

いつ頃始まり、終わったか忘れたが、「時計恐怖」というものがあった。

今でもその名残というべきか、部屋には「針時計」は置いてない。

「針の音」が嫌だったのと、「時の経過を針が刻む」のを「目で確かめる」のが嫌だったのだと思う。

 

それは、「時計というものが刻む時間」に「訳もなく」急かされる、焦らされる恐怖感や焦燥、苛立ちといった心理背景があったのだと思う。

今は、「針時計」こそ置かないものの、そうした「恐怖感」「不安」からはようやく解放されたという実感がある。

それは「人生の時間」を、「完全に自分のもの」にしてあるということと、その十分な「可動性・操作可能性」を得ているということを意味している。

 

そうした「時間のコントロールと展望の自由・自律性」と同時並行で重要性を持ったのは、「時事世界を、同時的に眺める」視座・スタンスの確立ということである。

いくつかの記事で言及したが、割と最近まで、「時事情報」を見ないし、「見たくない」または「摂取しようにも時間がない、またはスタンスを決められない」といった状況が数年単位で継続していた。

無論、「全くニュースを見ない」ということではないのだが、「思うように、社会的関心を拡げられない」といった「自己疎外」状況があった。

分かりやすく言えば、「社会的関心は無くはないものの、嫌なことだらけで目を背けたい、耳を塞ぎたい」といった精神面が強力に阻害し、「知る」ことから意識的に「逃避」していた部分が大きかった、ということを意味する。

 

これは、「能力×時間×展望の自由度」上昇ということで、上述の「時間のコントロールと展望の自由・自律性」と不可分の関係にある。

上で述べたのは、どちらかというと「内面的なネガティブの理由・背景」であるが、ポジティブには、「自分の能力を高め、視点や展望を確立する」ことに集中していた、という側面も無論ある。

その間というのは、不用意に時事に接してブレさせない、ということにも自覚的だったからだ。

 

「自分自身を、情報過多にしない」ように心を砕いてもいたのだ。

「知る」ことは大事だが、その「射程を、自ら決められる」スコーピングの操作性を手にしていることを、最重視してきた、と言い換えてもいい。

乱暴な言い方をすると、(甚だしく「時代遅れ」にならない限りは)「時事」は「自分の展望(=やりたいこと)」を明確にするまでは「棚上げ」にしてもさほど問題ない、と捉えてきたわけだ。

 

「展望の明確化×時事情報の摂取」というのが、ようやく「自分を『時代』へと『同調』させにいく」アクションとして位置付けることが出来る。

それはまさに、「時を前に進める」ことを意味する。

 

「時を前に進める」というのは、「自分が世(=社会)で行動する」その歩みと、歩みの覚悟を決めることが要請される。

そうでない限りは、「じっと自分を内に閉ざし、世の動きにも『見ざる聞かざる』で過ごす」で問題ないからだ。

 

自分の「時間=世界」との付き合い方は、少々極端なのかもしれない。

だが、自分が「空っぽ」のままで「情報のシャワー」を浴びせられても、「不安なままで、『誰か』に踊らされる」ことにしかならない。

ならば、「自己の充実」まではひたすら「待つ」よりない。

 

「時計恐怖」は、だから「自分の弱さ」なのかと思っていた時期もあった。

が、今の結論としては「そうではない(なかった)」となる。

「時間」というもの自体への思索を深めたことも大きいのだが、それは当ブログの趣旨からは外れることになるだろう。

 

地方政治・後記(?)ー議会傍聴編

先に述べた記事で課題にしていた、「地元議会の傍聴」に行ってきた。

地方政治雑感 - まつりごとでなく「ジブンゴト」

用事のついでと、例会でなく運営委員会だったので瞬殺だったのだが。

それでも割と刺激があり(無論会議の中身らしいものはないのだが。笑)、体験全体としては楽しかった。

 

当然ながら、議会スペースの階に行くのも初めてである。

役所と同じ建物で、議会スペースは最上階、首長室はその下の階にある。

役所自体滅多に行かないので、そうしたフロア区分になっていることすら初めて知った自分に失笑したのだが。

 

また、興味深かったのは、最初に役所の受付で、議会の場所と入り方について聞いたら、受付の人はそもそも、「運営委員会も傍聴可能」だということすら知らなかったこと。おかげで、自分もその反応に少々不安になった。

(申し込み不要。Webサイトには「議会事務局に直接お越しください」とあった)

が、議会事務局に電話してくれ、階まで行くと、事務局の人が直接運営員会の会議室に案内してくれた。

「いつも傍聴に来られていますか?」「いえ、初めて来ました」

恐らく、傍聴に来るのは余程「定番の人」だけに限られているのだろう。

 

傍聴に来ているのは自分一人。

ほどなく、事務局の人が自分にも、運営委員会の議案を渡してくれた。

運営委員会は、議員は10人ほどの規模。文字通り、議会の運営日程について話し合う。

既定事項のため、議事に内容らしいものはなく、会議自体も15分ほどで終了。

 

傍聴席と言っても、広い会議室というわけでなく、議員たちから3,4メートルしか離れてない後方の席に一人座っているだけなうえ、顔見知りの議員もいるので、ややドギマギしながら過ごしていた。

配られたレジュメに、今後の提出議案、意見書、議事日程の項目が並んでいたので、そこで初めて、「そうか、これがうちの自治体の議会で話し合われている項目なのか」と一挙に実感が湧いてきたのである。

「地域の政治」を「議会を通じて」体感する、独特の、初めての感覚。

 

議会フロアには、議会室脇に、図書スペースもある。

そこにも人はいない。

会議録や自治体史のほか、自治関連の専門書などが置かれ、それなりに充実している。

会議がすぐ終わったので、しばらくそこで会議録などに目を通していた。

議員以外に、出てくる役人(要は議会質問に答える行政側)も、自分が直接やり取りする人も出てくるわけで、この感覚もまた独特である。

 

会議録を通じて得た感覚とは、「議会を通じて、『役所全体(の業務)』を眺める」という視点が得られる、ということだ。

普段の自分の立ち位置では、当然「自分目線」でしか、役所や役所の業務に関心を持つことがない。

また、「議会・議員」目線というのは、「役所・役所の業務」というものが「カッコに入る」感覚もある。

当然ながら、「住民としての目線」を担うのは、本来「議会・議員」のほうなのだ。

 

他にも、上述のレジュメに合った議案・議事項目というのは、極めて身近な内容・政策や業界団体などの名も出てくる。

また、議員たちは、レジュメ上「会派」(または政党)で表記が成されているのも新鮮であった。

「議会広報」も恥ずかしながら、初めて目を通した。

 

以上の通り、短時間で十分すぎるほどの「お土産」をもらった。

コンパクトで、これ以上ないほど「自分に身近」な項目(そして人)で占められているという利点と特色がある。

政治というものにアクセスしイメージの湧きやすい手段として、「議会傍聴」はもっと知られてもいいだろう。

今は実は、「地方政治」には自分なりに取り組もうとしている探究テーマがいくつかある。

今後深めるうえで、大きく強力な素材になっていくだろう。