「持続可能性なき世界」での「死に方」…?

最近は、戦争と気象災害激化によって、すっかり「未来のこと」を大真面目に考える気力が失せている。

「未来」を信じる根源がどこにも見当たらないからだ。

 

逆に、「災害リスク」が、いつ、どのような形で顕在化するか、その時自分はどう振舞いたいか・振舞うべきか、ということに、思考の比重が移っている。

自分自身、本来は楽天的で、こうした悲観的なことを考えることは好まない。

が、楽天的と同時に、極めて現実的でもある。

どうも、単に日本が・日本人が、というのでなく、世界全体に対して「アカルイミライ」をとても信じる気になれない。

 

かといって、心配で夜も眠れない・飯も喉を通らないというほどの心配性という訳でもなく、「今の立ち位置」の判断を決めかねた宙ぶらりんの状況、と言えるだろう。

今の自分の関心事では、はっきり言って、

「目先に起き得るハザードリスク>自分の未来・将来(を見据えた現在のアクション)」

となっているのだと思う。

 

それというのも、ハザードに対する現実的なシミュレーションやその対策、それに必要な知識・情報が不足しているからだ。

それ故の「(いざという時の)覚悟」が不十分で、中途半端な「不安」に脅かされているのだ。

 

自分でも困っているのは、「何としても生き延びてやるのだ」という強い意志力に欠けている所だ。

といって、別に災害が来たら死んでもよい、と割り切ったり、投げやりになっているのではない。

「人の生を押しのけても何としても生きよう」という根源に欠けている。

また他方で、あれこれクヨクヨ悩んでも仕方ない、というほど楽観することもできない。

 

災害時の「生き方・死に方」そのものが、自分自身の中で茫漠としていて、決めかねているのだ。

それもこれも、災害時の「強み」も「信念」も、未だ十分に確立されているとは言い難いからだ。

 

今は、「人事を尽くして天命を待つ」と言えるだけの準備はしておきたい。

「死ぬこと」自体が嫌なのではない。

十分に自分の「死に際」を考えないうちに、「その日・その時」を迎えてしまうのはやはり抵抗がある。

もし、リスクが表面化するときが来るとしても、それに備えて、今の自分にできることはしておきたい。

(それが「武士道」なのだ、という直観を持っている)

 

「死ぬこと」「死に際」を前提に書いたが、別に、当然「死にたい」訳ではない。

今の災害リスクは、全く楽観できる状況にないからだ。

そして「死に際」までの時間を稼げるならば、きちんと「自分の仕事・本領」を残しに行きたい。

 

時間がない、といった時に、どの程度の「残り時間」を見積もっておくか。

それにより、「事前準備」に対する心構えも変わってくる。

前提となるのは、「リソースや、知識・情報が不十分な中での準備」になる、ということだ。

それを踏まえて、「生きる手立て」、場合によっては、「死に方・死に場」を考える。

 

「リスク」を踏まえつつ、「リスクが起きた場合」「起きないままの平和な生活」の両様を考えた上で生活を送る、というのは結構難しい。

準備もそうだが、心構えをつくっておくことが何より難しいのだ。

自分の生命もそうだが、「世界」にも残り時間は限られている。

その時間を大切に噛みしめながら、一日一日を送っていく。

ささやかだが、それだけが今の自分にできる「覚悟」だ。