(長文注意。具体的なことを書けず、抽象的記述となっています。読む方は予めご留意下さい)
思い立って、とある政治系のイベントに出てきた。
短い時間だったが、議員たちと割と率直な意見交換が出来て、非常に有意義だった。
また、各地の事例や理論の近況も確認でき、学びも多かった。
特に、話しながら、「ああ、自分はこう思っていたのか、こういうスタンスだったのか」と、自分自身の立ち位置や感覚を再発見する機会ともなったのが、意外かつ新鮮でもあったので、その覚書代わりに書き留めておこう。
といっても、読む方には、あまり何のことか分からないとは思うので申し訳ないのだが…いずれ詳しく注釈できる日を待つこととしたい。
・(地方政治に関して)自分が想像以上に(そして意外にも)「お役所脳」だった。
仕事上の立ち位置ということもあるし、自分の「政治観」において、「地方議会」という存在は、殆ど認識すらされていなかった
(だからこそ、このイベントに行ってみた訳だが)
・会った議員たちは、想像以上に、真剣に議会活動に取り組んでいる。
汗もかき、現場で非常に苦闘していることが分かった。
「ここまでやるのか!」と驚き、感動する事例もあった。
・しかし、「それが住民に伝わってない」という矛盾。
「発信しないと、活動どころか存在すら認識されない議会って?」という素朴な疑問が生じた。
・「地方議会」というものの機能と存在意義について。
地方自治は、日本では憲法(92,93条)に規定があるが、具体的な内容は地方自治法で定められている。
「地方議会」と「首長」双方を、住民自ら選ぶ「二元代表制」が基軸で、国の「議院内閣制」と大きく異なる。
・自分自身が気づいたのは、「お役所の施策」メインでのみ見てきて、「議会活動」にはまるで興味を持ってこなかった、ということなのだ。
「議員・議会=自分たちの代表」という認識そのものが欠落していたことを意味している。
・地方議会や議員内部では、実は様々な情報発信を行っていることを知った。
「自己満では?」との疑問も若干生じたのだが。
・実は、自分の卓では、自分が議員たちから質問攻めに遭った。
「なぜ興味を持ってないんですか?」と。
こう聞かれないと、考えることすらなかったのだ。笑
「役に立ってもらえる」瞬間そのものがないのが、実際のところ。
・地方議会は、どこも「議員の成り手不足」が深刻化している。
「無投票再選だと、『投票率』そのものが出てこない」というのは目から鱗だった。笑
投票しなければ、確かにそうだ。「投票実績」そのものが積み重ならなくなる。
・一方、「議員定数や議員歳費の削減」という、地方議会で行われてきた施策そのものが、住民たちの「地方議会」観を端的に反映していると見なすことが出来る。
「いや、議員も議会も、そもそもそんな要らないでしょ?役立ってないでしょ?」と。
そして「無投票」化することで、「住民の地方議会への無知・無関心」はますます加速し「砂漠化」していってしまうのである。
・最も共感したのは、「議会活動報告は、住民が来るのを待つのでなく、議会や議員自らが、住民に出向いて行わなくてはならない」と述べられていたこと。
興味深かったのは、ハードルを下げて、住民たちと接点を持つために、様々な工夫(堅苦しくならないようにゲームなど)を凝らしたりするやり方で、歴史的には「御講」を想起した。
・中高公民でも習う、「地方自治は民主主義の学校」(ブライス)という言葉がある。
これについては、色々なことを考える機会となった。
地方議会では、(「成り手不足」解消のため)「議会や議員の育成」そのものに、それぞれ注力し、また、「住民への発信」に皆悪戦苦闘している。
自分が興味があったのは、「議会・議員に対して」と、「住民に対して」と、双方に対して、「政治・政策知識の涵養」を、「継続的に」行っていかなければ、「良き政策と人の循環」が起こらないだろう、ということだった。
実は、自分は「地方議会」の政治プロセスについて、具体的なことは殆ど知らず、この会で初めて知った様々な概念や用語が非常に多かったのだ。
つまり、「議員たち自身・内部では知っている」(言わば専門的な)政治知識というものがあるのだが、それらは、住民には降りてきにくくなり、それが議員・議会と住民の距離を隔絶してしまう部分が出てくる。
非常に基本的なところ・初歩的地点で、住民に対する「地方政治のイメージ形成」につまずきが出てしまうのである。
・子育て世代や、子ども世代(高校生など)への「アウトリーチ」の試み自体は正しい方向と評価できる。
が、そこにも「議員・議会」と、「住民」双方の間で、相当の「知識・関心格差」があり、現状ではなかなか埋まらないだろう、というのが自分の観察だった。
・議員は、「困りごと」を自分たちに伝えて欲しい、という意識がある。
自分の考えでは、住民のうち、具体的な「困りごと」として「問題意識を言語化」出来る人というのは一部に過ぎないのではないか、と見ている。
それが、「そもそも政治の中で扱うべき=共有化される課題」なのだ、ということを、住民側で明確に意識したり、考え、深めること自体が難しいのが、今の社会のあり方ではないだろうか。
また、行政・公共・社会状況に対する気づきや課題感があったとして、「議員や議会が本当に取り組んでくれるのか?」あるいは「特定の政策知識の有無」なども分からない。せっかく言ったとして、「まともに取り合ってくれるのか?分かるのか?」という不安もある。言って通じなかった場合の失望感・徒労感の大きさというものを、想像してしまって(初めから何も言わない)というのもまた大きい。
・子どもに向けて、教育プロセスの中で「議会体験」とか「主権者教育」をやるなら、それを「大人になってから=社会人教育」にも連続させなくては無意味ではないだろうか。
そうでないと、単なる「学生時代の思い出作り」に堕してしまう。
政治について、「同じ個人が連続的に関わり、考え続ける」仕組みづくりには、まだ不足している。
・次に、議員の、その「住民は、困りごとを自分たちに伝えて欲しい」というスタンスの、「住民の客体化=お客さん化」自体にも、「地方自治」としては問題があると考える。
「代表制民主主義」の発想においては、「妥当」と言わざるを得ない部分もあるのだが。
「リサーチと言語化」を通じて、「課題そのものの理解を、住民にも深めてもらう」という「翻訳」的機能も、本来議員や議会が担うべき役割ではないかと考える。
その上に立って初めて、「行政」「議会」双方の役割というものを認識できる筈だ。
・(議会制・代表制を前提にする限りは)「議会のファンづくり」という発想があっても良かろうと思われる。
自分が今回初めて認識したのは、「議員たちの集合・一体としての議会」という性質・側面である。
小規模な地方議会では特に、その「一体感」やその重要性が際立つというものだろう。
もっとも、「それは議員同士の単なる談合や馴れ合いにならない?」というのも懸念点ではあるのだが。
・「成り手不足」問題を解決するには、住民に、「議員と議会固有の役割と仕事、またその重要性・有効性」を認識してもらわねば始まらない。
「何のためにあるの?役に立つの?」を認識してもらったうえで、その具体的な「職業観」も持ってもらう、という極めて重層的なプロセスが必要となる。
待遇面と、その労力=労働時間面の課題解決も必須だ。
つまり、(かつては地方の「名望家」層がそれを担ってきたのに対し)「本来、誰=どのような存在が、地方議員を担うべきか?」という社会的合意が崩れてしまっているのが現地点であり、議会はそこに対して「解」を自ら示しに行かなくてはならないのだ。
自分個人は、「行政を使って」という明確な意識はあって、実務的には、それで様々な便宜を図ることが出来る(また、行政とは相互的な情報のやり取りを通じて意思を伝えることも何がしか出来ている実感もある。限界はあるものの)。
が、「議会・議員を使って」という発想はない。
「何が出来るの?」がそもそも分からず、期待値もないからだ。
ではなく、本来「議会・議員を育てる」のが、「住民の仕事」である。
それは分かるが、どうもその「メリットがない」と感じるのだ。
今回の会を通じて、いくつか自分としてのスタンスや課題を整理することは出来たので、それをまとめて結びとしたい。
1議会や議員に「自分から」は恐らくリーチしない。
変に「当事者性」は持ちたくない、持とうとしないからだ。
ここまで散々「地方自治」についてブっておきながら矛盾しているのだが。
そこには、忙しくて変に関わりを持ちたくないということと、仕事上のポジションの複雑さということ、自分個人の戦略ということが相互に絡み合っての事情によるものだ。
「きちんと距離感を保っておこう」というスタンスであり、戦略と整理できる。
個人的・組織的に「積極的に政治力を持ちたい」との動機がなく、むしろ「悪目立ち」したくない、という心理が働いている。
と言って、別に「非協力」な姿勢というのではない。その時議員にも言ったのだが、「聞いてくれれば、知識や情報も、また住民の持つ(潜在)課題感も持っているから答えられる」ということだ。
「お役所脳」というのはここにも言えて、(役人でないにもかかわらず)「聞かれたことには答えるが、聞かれなければ敢えて答えない」というスタンスなのだ。
知りたいなら、そっち(議員・議会)の側からきちんと引き出して欲しい。
(そもそもそんなの介さなくても、「自治」には仕事を通じて貢献してるし、という自覚があるのである)
2地元議会の傍聴に行く。議会報を見る。予算を自ら読み解く。
3近年地方政治史を追う。
地方政治に、元々強い興味があった訳ではない。
いくつかの契機があるが、その一つは、コロナ禍で「地方自治体には、これほどまでに大きな権限が与えられているのか」と知ったこと。
国が強権で、戦前の「国家総動員法」的な措置を採ろうとしても、そのような法的建付けになっていなかったことは、非常に痛快だった。
そして、各知事や自治体単位に、非常に大きな法的裁量権があることを、そこで初めて自覚したのである。
随って、「実践的・生活的関心」というより、「知的関心」のほうが勝っている、というべきかもしれない。
が、今回のイベントで、そのための重要な素材を直接仕入れることになったのは非常に有益だった。
他にもやってみたい有益な試み(世代間・業界間交流による政策啓発)のアイデアもあるが、いずれ深めてみることとしたい。