「気象災害難民」の脱出シミュレーション

気候変動・温暖化の影響は、世界のすべての人が実感できるレベルまで来たと言えるだろう。

最近は自分も、「気象災害難民」になった場合の脱出シミュレーションを、具体的に考え始めた。

日本は島国で資源少国、また現在は経済力低下という顕著な条件があるため、早期の準備が必要だ。

(「やりたいか否か、やるべきか否か」という自己の意思や倫理的(?)判断もそこに含まれる)

現在では、地震とか災害対策に備える人も出てきただろうが、ある意味それの延長線上と言えなくもないが、より広範かつ包括的な意味合いである。

 

企業経営ではゴーイングコンサーン、国際政治では「持続可能性」という概念がある。

あるいは、人間の生命に即してはQOL(Quality of life)という概念なども。

自分の生命だけでなく、「生活や、生活の質全体の持続性・継続性」をトータルで考える必要がある。

 

「気象災害」「資源不足」(現在は戦争が拍車を掛けている)というのはセットで進行する。

単純に言えば、カナダや豪州のように、資源豊富な国に脱出しておくのが、「明確確実」なリスク対策には違いない。

ただ、それらの「地域選択」というのは、所詮「相対的優位」に過ぎない、と捉えている。

 

ウクライナ戦争でも、一度は祖国を脱出しつつも、結局は、トータルな生活のあり様を考えて、帰国したという人もいるという。

「脱出する」というのは、単に「短期的に有利な戦術」に過ぎなくなる可能性もある訳だ。

 

もし気象災害・資源不足の激甚化が予測されるとしても、敢えて日本に留まるという(積極的・消極的)選択も当然あり得るだろう。

しかし、そうだとしても、「じゃあその時、日本の経済社会はどうあるのか?自分の生活はどうなり、どう過ごしていくのか?」のシナリオやシミュレーションが必要となる。

 

「これからどうなるだろう?」と全く分からない段階では、不安と焦りしか無かったのが、知りに行き、心の準備をしておくだけでも、不思議と気持ちが落ち着いてくるものだ。

地震対策・大雨洪水対策にも言えるが、「ピンポイントのリスク対策」というのは非常に難しいものだ。

「自分一個人や自らの家庭、地域に対して」瞬間やその地域局所で、どれほどの被害を被るのか?は、精密な予想が殆ど不可能だからだ。

 

日本社会や政治現場で、「防災」は事実上ほぼ不可能と見て、「減災」へと舵を切り直したことは高く評価するに値する。

(国際的トレンドもあるかもしれないが詳しく知らない)

自分は、気候変動も同様だと考えている。

「温暖化をストップする」という愚劣な方向性は即座に放棄し、「気候変動・気象災害・資源不足の減災」路線へと舵を切り直さねばならぬ。

ただ、それには、現在のSDGsなどという生ぬるいスローガンや運動を遥かに超えて、文明のあり様を、急速かつ厳しく改め、世界の経済社会を、統制的方向へと変更しなくてはならなくなるだろう。

(既に、気候変動というトピックにおいて「国際政治は一体とならない」という解は明白となっている以上、「緩い国際枠組み、堅めの隣接地域の連携」で乗り切るよりない)

 

こう書きつつ前提を引っくり返すようだが、実は、自分の生命にこだわっている訳でもない。

そうだとしても、「死に場、死ぬ瞬間」は自分で選びたい。

選びたいのは「死に際、死に方」に過ぎないのだ。

知恵と労力を尽くせる限りは、可能な準備をしておきたい。

その先には、「世のため人のため」に、自分だけが果たせる仕事、役割というものも確実に見えてくる筈である。