伝言ゲームと日本人式「がんばったで賞」

(あまり具体的な内容となっていないため、読むのは推奨しません)

謎のタイトルとなってしまった。

昨日は、スタッフ採用面接を行ったところ、それはある筋の仲介・紹介を経ていたのだが、「(いい意味で?)聞いていた話と全然違う」となったのである。

 

あまり詳しく書けないので、ピンと来づらいかもしれないのだが…

いわゆる人材紹介会社とか、「人からの紹介」を経由しているものでは「ない」。

その「仲介」を経ることになったのは、(こちらからの要望を経たものではあるものの)「成り行き上やむなく」といった側面が強い。

すなわち、その「仲介」者は、元来そうした機能を期待されている主体では全くなかったのである。

 

「仲介」というより、正確には「声掛け」程度の役割だった(少なくともこちらはそれを想定した)のだ。

なぜその「声掛け」を利用したかというと、「負担の大きさ」、「時間のなさと時間稼ぎ」の要素が非常に大きかったからに他ならない。

 

その「声掛け」者は(その機関ではそれなりの「お偉いさん」ではあるのだが)、慣れないというより、全く馴染みのない業務に、一体どのように遂行すべきかノウハウも持ち合わせず、「戸惑いつつも、やらねばならないのでどうにかせねば」といった具合が顕著に伝わるような仕事ぶり(?)が垣間見られたのである。

具体的には、その「声掛け」の中間経過の共有内容がコロッと変わるとか、先述の面接対象者の、「聞いていた話と全然違う」といった中身なのだった。

 

といって、自分は不思議と、全くその「声掛け」者を責める気が起きないのも不思議だった。

もっとも、こちらが「声掛け」を要望したのは、筋上のことで「感謝」する内容でもないのだが。

 

なぜ責めようと思わなかったか?

「負担の大きさ」「時間のなさと時間稼ぎ」双方の目的は、立派に果たしてくれたからである。

元来、「声掛け」も「仲介」を期待したものというか、要は「大人(組織)の事情」から、という側面が大きい。

仮に「聞いていた話と全然違う」となっても、今ダイレクトに正確な情報が伝わっている以上は、あとはもうその「声掛け」者のせいにすらしてしまえるからである。

 

自分は従来、「頑張ったのだから、褒めたたえてあげよう」式の日本人の主観的情緒性を好まない。

特にその嫌悪感は、結果責任を求められるトップアスリートや、政治家に対する世間の「反批判」に対して向けられることが多いのだが。

今回は深い分析には踏み込まないが、そのマインドの根底においては、「批評性の欠如」と、「その大衆自身が、日頃『褒められる』ことから飢えている」ことが、そうした「がんばったで賞」式の情緒を支えているのだと捉えている。

 

しかし不思議なのが、自分は、その「声掛け」者にはむしろ、そうした「がんばったで賞」を上げたいくらいの気分になってしまったのだ。

立派にこちらの「下敷き」にはなってくれていたから、に他ならない。

こちらが「結果を求めない」ところに対して、「的外れながらも懸命にやってくれていた」軌跡は見え、結果として「時間稼ぎ」にはなってくれたからだ。

 

自分としては珍しい(?)「情緒的判断」にどうして流れてしまうのだろう?と考えると、「負担がキツすぎる」こと自体は客観的に正ではあったものの、しかし個人的に「ラクしたい」を埋めてくれるものでは間違いなくあったから、とも言えるだろう。

もっとも、先ほど述べた通り、筋的に要望して然るべきもので、別に不当に利得を貪ったものではない。

また、恐らく当人にそれを伝える機会や必要自体もないだろう。

 

自分はそれでも、「プロセスを果たしてくれた」ことへの一定の評価をしていて、それがこの「がんばったで賞」として表されたのだと感じる。

日本人式「がんばったで賞」は、「表立って行う」べきものでは「ない」が、「内々に語らう」分には、一種の慰安効果はあるかもしれない、と感じた出来事だった。