「昔」というのは、恐らく学生時代辺りの話。
その当時は、ナショナルなニュアンスを帯びていた気がする。
だが、2010年代以降は、震災・災後~アベ政権下で、政治的なものを殆ど忌避していた。
社会の空気的にもそうだし、自分自身のことでいっぱいいっぱいだったということもある。
なおかつ、2010年代に特に盛り上がるようになった「多様性」への胎動なども、その当時は胡散臭く鬱陶しく見えていた覚えもある。
「保守的」というよりは、自らの中のバイアスを客観的に見つめる余裕に欠けていた、というべきだろう。
その当時の「リベラルな保守」だった自分というのは、どこに行ったのだろうか?
もう消えて、いなくなったのだろうか?
また、既にそこに惜しさも寂しさも感じないというのは、特段の意味も価値もなかった、と見なしているということなのか?
まず、なぜ「リベラルな保守」だと思っていたのか?
恐らく、ゼロ年代前後周辺までは、保守的な言説に触れることが少なくなかった。
そうでありつつ、いわゆる「リベラル」な言説も、批判的にだが摂取することもしつつ、自らの政治ポジションを形作ろうとしていたと言える。
なおかつ、そうはいっても、政治的興味は強かったものの、それが唯一の興味関心ではなかったから、政治・行政や政策についても、当時はそこまで深めるに至ってはいなかった。直接的な人的関係についても同様である。
その時は、自分が「しかるべき位置」に行くまで、「(実践としての)政治的な領域は、いったん棚上げにしよう」というスタンスだったのだと思う。
実際のところ、やりたいことも具体化されてないし、精細な知識も、それを深めるべき動機もまだ不足していたのだ。
しかし、2010年代を通過した今はどうか。
当時の自分と、政治的なポジションは、少なくとも力点の置き方が変わった。
いや、あるいは当時も今ももしかしたら、さして変わらないとも言えるのかもしれない。
当時は曖昧だった事柄に対し、年齢を重ねて、また変わったり変わらなかったりする社会に対するスタンスが明瞭になったということに過ぎないかもしれない。
少なくとも、自らの中の「モヤモヤ感の正体」を言語化しやすくはなった。
当時何となく思っていた「政治的なポジション」なるものも、根拠も内容も、恐ろしく茫漠としたものだった、というに過ぎないかもしれない。
しかし、では当時の「リベラルな保守」が完全な「迷夢」だったのか、と問われれば、それもまた否と答えざるを得ない。
では、それは果たして何だった、また今何なのだろうか?
今の自分は、「保守中道」寄り、またはそれに親和的なスタンスを取っていると思う。
正確に言うと、「日本社会は、トレンドとして、社会全体としては、『保守中道』より保守(右)寄り」だと観察するに至り、それに合わせた政治的・社会的処方が必要だと捉えるようになった、ということだ。
2010年代は、政治的な、社会的なものを忌避する時期が個人的にかなり長く続いた。
しかしそれにより、政治も社会も、距離感をもって冷静に俯瞰できる位置を得られたともいえる。
「リベラルな保守」というのは、それでは過去の自分への一種のノスタルジーなのだろうか?
違う。そうではなく、今ではもう完全に「歴史」なのだ。
社会も自分も変わったし、その変化・変貌には理由がある。
そして、きちんとポジショニングし、自らの立ち位置を表明できるようになるために、その「歴史」と向き合おうとしているのだ。
長く続いた「忌避」から足を洗うべき時が来たのだ。