「明日、地球が終わるとしたら」-愛国心とサバイブ

気候変動と、異常気象・激甚災害が可視化されたことで、自分自身のスタンスが、急速に「自分だけ」に一極化・局限化された。

そしてそのことを、かつてのような「ミーイズム」として否定的にではなく、むしろ肯定的に捉えられるようになったのだ。

今の自分の想定としては、「かつての日本の終戦直後」同様の状況に置かれたら、ということなのだ。

今後は、気候変動と戦災が相まって、急速な資源不足や住環境不足に見舞われるし、その争奪をめぐり、紛争は広範化・深化していくという悲観的な見方をしている。

 

自分は、「持続可能性」という概念を信用していない。

信奉することは人々の勝手だが、個人的に依存することは非常に危険だ。

SDGsというのは、所詮「商売のためのお題目」に過ぎぬ。

(自分も、ビジネスのためにそれらをプラグマティックに利用するのは吝かではない)

「子どもたちの世代に無責任ではないか」という人々は、己自身で勝手に信じて実践すればいいだけだ。

個人的には、実現できもしないお題目を唱えるほうが、遥かに無責任ではないかと考えてもいる。

 

なぜこのようなことを改めて考えるようになったか。

若い時分には、「立志」、志を立てたその根源には、間違いなく「愛国心」めいたものが強くあったからだ。

それは、もうなくなったのか?あるいは変わったとしたらどう変わったのか?を、今時点で整理したいと考えたからだ。

 

愛国心」は「ない」「なくなった」とは言わないまでも、限りなく薄く0に近づいた。

同時に、「道徳心」「道義心」みたいなものも0になったか、と言えば、それも否だ。

が、前に述べた「サバイブ」を最優先に考えるようになった、ということだ。

 

したがって、自分の中の根源、その重心の在り処を再定位する必要が生じたということだ。

それだけ、「己のサバイブ」を実現するのが、果てしなく大変になったことを受けてのことだ。

 

ただ、そうなると、今後の「仕事の方向性」をどこに向けるのか、が難しくなる。

「己のサバイブ」しか考えないでできる仕事などというものは、当然ない。

要は、己の信じる拠り所となる「大義」を、どこにどう置けばいいのか。

 

昔は、「世間の遊泳術」というものに頓着してこなかったが、それを真剣に考え、実行に移すだけの余裕、あるいはふてぶてしさが出てきたわけだ。

難しいのは、「守るべきもの」を作る必要性自体を、特段認めてないということだ。

それは、「己の命、生命」であっても同じだ。

別に投げ出すべきところがあれば、ポンと投げ出しても何ら惜しむところはない。

 

しかし一方で、「己のサバイブ」にしても、具体的に「どこで、どのようにサバイブしていくのか?」というシナリオもまた必ずしも具体的とは言い難い。

「サバイブ」を焦点化した一方で、「何が何でも生き延びてやろう」という強力な意志統一がなされているというわけでもない。

 

考えるべき課題は多い一方で、知識や情報が揃っている訳でも実はないのだ。

「まずは生きねば」を最優先するようになったのはいい。一方で「その先は?」と考えるのは、実は「サバイブ」以外を考えるだけの余裕が、「今はまだある」ことを意味している。

 

ポイントになるのは、「自然と自分一個人」「人間(文明)社会と自分一個人」との関係を、突き詰めて考えることだ。

それも、「サバイブ(生存)」が問われる、具体的なあり得る個々の極限状況に即して。

 

よく、タレント等がメディアでの遊びのアンケート項目で、「明日地球が終わる(人類が滅びる)としたら何をする?」という質問に答えるのを聞くことがあった。

それを長く小馬鹿にしてきたのだが、今や、それを真剣に考えるべき時が来ているのだ。

 

別の局面として、「愛国心」が薄れたのは、「棄民」とまでは言わないまでも、国が「自助」「共助」などというのは、きれいごとというより、本当にその余裕がないのだ、というのを実際に知ることがあったからなのだ。

そこで「自助」「共助」をするのは、自分とか(身近な)自分たちのためであって、「国のため」ではないのは言うまでもない。

なおかつ、特にコロナ禍において、「国の果てしない無能さ」というのが、誰の目にも露になったし、それにとめどなく振り回されて疲弊させられすらしている。

 

「国」という存在や制度があったとしても、プラグマティックに利用しようとする以外にないのではないか。

今後、日中間や日朝間で戦争・准戦争状態に陥ったとしても同じことだ。

いや、「サバイブ」のためには、より巨きなマーケットを持つ中国や中国人を相手にすることも十分にあり得ることだ。

 

「自分の身を守るために有益」ならば、「国」を便宜的に利用しても良いだろう。

「国」に乗っかっている「大義」を、自分の内面から信奉することはない。

それを、現在の生活やビジネスの必要から、プラグマティックに利用する以外には。

 

世界全体で、経済的・社会的・心理的余裕が喪われている。

その中で、自分が「サバイブ」するために必要なモノ・コトとは果たして何なのか。

そのために何をすべきか。どこに行くべきか。

 

愛国心」というものが成立し得た社会条件そのものが、既に喪われたと考えてもいいのかもしれない。

日本社会(の一部勢力)がそうしたものに縋り付いていたのは、失われ行くものを認めたくなかったに過ぎなかったのだ。

そして、自分自身もまた、それに大小踊らされていた、単なるミーハーだったのだ。

 

別に、出発点の動機や根源が変容したと言っても、それを恥ずべきと考えているわけではない。

構築してきたものは、いわば「中性」的なものだったからだ。(今時点で大した構築物があるわけでもない)

また、「愛国心」だけが出発点だったわけでもない。実は、今までの歩みにおいても、動機の多岐化・多元化という事象や可能性は生じていた。その意味では、予見可能性の内にあったとみることもできるだろう。

 

「サバイブ」と言った時に、そのシチュエーションを具体化せねばならぬ。

単に極限下で生き抜くというより、「その時に、どのような働きをしたいのか・できるのか?」を考えねばならぬ。

別に、自分個人が生きるというだけなら、綿密にどのシチュエーションでも避難ルートや生存手段を確保しておけばいいだけのことだ。(それ自体も難しいし、その準備がある訳でもないが)

「が、生き抜いたとしてその先は?」を、生ある限り、常に問い続けられるはずだ。

 

「サバイブ」というのは、恐らく、厳しい災害等や急速・突発的な資源縮減・住環境喪失により、生命・健康のほか、生活環境・インフラその他の必要物や「余裕」が削がれたなかで、どう生活が可能か・続けられるのか、ということだと今のところ想定している。

 

自分の武器は「歴史」だ。

「歴史」をある程度知っているから、自分の中に「必要事例」が割と豊富にあって参照可能だ。

それと、「サバイブ」におけるシチュエーションと、自分自身の振舞いというのを、雄大に結びつける必要がある。

雄大に」と言っても、「英雄になる」ためにではなく「サバイブするために」である。

 

「歴史」は、いつ・いかなる時であっても、武器に、友にならない状況はない。

が、その主体の「引き出し方」次第ということだ。

「歴史」という強みはあっても、その有効な引き出し方を持てていない、ということなのだ。

 

「サバイブ」といっても、「単に自分一個の身を守りたい」のか「極限下でも何らかの仕事をしたい」のかで、動き方はまるで異なってくる。

それは後者が良くて前者が悪いと言った話ではない。

状況や立場により、振舞いが異なってくるのは当然のことだ。

ただ、いずれにせよ、可能な限り「恥」や「後悔」のない動きをしたい、ということなのだ。

 

「危ない事から逃げる」のは別に構わないし、むしろ身を守るために必要なことだ。

が、他方でまた、「嫌なこと、考えたくないこと・見たくないものから」逃げ過ぎてきたのではないか。

あるいは、社会の中で考えるべきリスクが多くなりすぎて溺れてしまっていた、ということかもしれないが。

ただ、それで「思考停止」していいわけでもない。

「生活の知恵」にすべき・なるべき「リスク対策」というのは、ある程度絞り込まれてしかるべきだ。

それと、自分自身が個々のシチュエーションでどう振舞うべき・振舞いたいかを、具体的に結びつけていく必要がある、ということなのだ。

 

こうして、「自分の生と死」に即して、思考と行動を具体化することで、間違いなく「強靭化」していけるだろう。

鍛えるべきは「身体」「健康」だけではないのだ。

「思考」と「生活(くらし)」自体を強靭化しなくてはならぬ。

 

随分と主題から逸れたようだ。

「国」という制度はあるが、「サバイブ」というテーマまたは目標において、「自分一個人」と「愛国心」が結びつくシチュエーションは、もはや考えにくいとみるべきだ。

 

グローバル化は世界の隅々に行き渡り、世界の側も、自分の内面も変えてしまった、というべきだろう。

今後、徹底的に資源環境が狭まり、激しい争奪戦が繰り広げられる中で、「サバイブ」と「法」「仁義・人道」との関係はどうなるのか。そこに対して、自分はどのような立ち位置で、どう振舞いたいのか。

(社会問題を捉える際の)主題の本質が、急速に変貌を遂げたのだ(あるいは自分の問題関心の捉え方が矮小過ぎて気づけなかっただけかもしれないが)。

 

まだ、「今時点では」、「国」の活用できる・アクセスできるリソースは0ではない。

その限りでは、「愛国心」を活用できるシーンもなくはなかろう。

しかし、その「消費期限」はいつまでなのか、が問題なのだ。

 

自分の哲学の分岐点になっているのは、「自分一個人として、世界ー自然に対したいのか?」、はたまた「人間社会内における個人として、世界に対したいのか?」である。

そのどちらを選ぶ(あるいは重心を掛ける)のかで、「死に方=生き方」のデザインが大きく変わってくる筈だ。

 

先ほども述べた通り、自分はSDGsのようなスローガンを信用していない。

これからの世界の変貌に対して無責任かつ脆弱と捉えているからだ。

といって、では人間社会にその代替案を示したいと考えるわけでもない。

今後のグローバル・クライシスに対しては、もっと自己本位で問題を捉えている。

 

その一方でまた、スキルもリソースも生成途上だし、仕事も途半ばである。

先ほどの「死に方=生き方」のどちらを選ぶか、ということでなく、状況に応じて生き方をスイッチする、という柔軟な姿勢が必要になる、ということだと思う。

即ち「常在戦場」ということだ。

危機はいつ、どこで顕在化し自分自身が見舞われるか分からない。

いつでもその状況に備えられるだけの「余裕」を身につけること、それが「個人としての目標」と位置付けて良いだろう。